更新日: 2022年2月4日

荷風の散歩道

荷風の散歩道図録表紙
 昭和20年3月10日未明、麻布市兵衛(いちべえ)町の「偏奇館(へんきかん)」が戦火によって炎上した。荷風がここに木造2階建ての洋館を造り、移り住んだのは大正9年(1920)5月、41歳の時であった。ペンキ塗りの一見事務所のように見えるこの建物で、自炊独居の生活をしながら、「雨瀟瀟(しょうしょう)」(大正11年7月)、「下谷叢話」(大正15年3月)、「つゆのあとさき」「(昭和6年10月)、「ひかげの花」(昭和9年8月)、荷風の代表作となった「濹東綺譚(ぼくとうきたん)」(昭和12年4月)などの数々の作品を執筆したのである。
 偏奇館とともに「萬巻の図書」が灰となり、持ち出せたものは、数篇の草稿と日記のみの、文字通り着のみ着のままで荷風は戦火を逃れた。そして、8月の終戦まで、代々木、東中野、明石、岡山を罹災しながら転々とした。
 そして9月、従兄の杵屋五叟(きねやごそう・大島一雄)が疎開していた熱海の木戸正の家に落ち着いた。しかし、ここでの生活も長くは続かず、翌昭和21年1月、杵屋一家と共に市川の菅野の借家に移り住んだのである。
 (『荷風ノ散歩道』市川歴史博物館 1990より 以下の文章も本図録より)
愛用していた買物カゴ・こうもり傘・下駄
愛用していた買物カゴ・こうもり傘・下駄
昭和22年10月20日付読売新聞に、蝶ネクタイに下駄ばき、こうもり傘に買物カゴをさげた荷風の写真が掲載され話題となった。

夏の麻の背広、蝶ネクタイ、パナマ帽、カバン、靴
夏の麻の背広、蝶ネクタイ、パナマ帽、カバン、靴
荷風は身長約180cm、足の大きさ約27cm、帽子のサイズ56cmだった。とくに靴は合うサイズがなかなかなかったので、下駄を愛用していたともいわれている。

机

昭和21年1月19日の日記に「古道具屋にて机を買ふ。百五十円なり。」とある。

菅野

 荷風の市川での生活は、昭和21年1月16日、菅野258番地(現菅野3丁目17番地付近)の借家の一室からはじまった。ここに荷風は、従兄の杵屋五叟(大島一雄)一家とともに暮らした。長唄の三味線方の五叟と著述業の荷風、一つ屋根の下に暮らすには、生業があまりにちがいすぎた。隣室から聞こえてくる稽古三味線やラジオの音を避けて、荷風はしばしば近くの白幡神社や、諏訪神社、市川駅の待合室で読書をし、時間を費やした。翌年の1月6日には、執筆のためにしばしば部屋を借りていた同じ菅野に住むフランス文学者の小西茂也の家の一室に間借りの自炊生活をはじめた。しかし、ここでも長年の間に身についた個人主義のために小西夫妻とうまくゆかず、昭和23年12月には立ち退きを迫られ、菅野1,124番地(現東菅野2丁目9番11号)に古家を買い、独居生活をはじめた。この家に昭和32年3月まで暮らした。荷風は菅野に約11年間暮らしたことになる。(以下、『荷風ノ散歩道』図版紹介)
  「断腸亭日乗」昭和21年1月22日条  写真「京成菅野駅で 昭和21年頃」  写真「自炊する荷風」
 写真「小西家の井戸端で 昭和22年8月」  写真「自宅前で」
 小西茂也「同居人荷風」(「新潮」昭和27年12月号)  
 図版「永井家系図」  図版「市川市動態図鑑 昭和32年改訂版」

市川

 荷風が市川に越してきた昭和21年頃は、現在のJRは省線と呼ばれ、市川駅は北口のみが開設され、むろん高架にはなっていなかった。そして駅前には闇市がたった。現在のダイエーがあるあたりである。後にここは、市川駅前マーケットの愛称で人々に親しまれた露店が建ち並んだ。昭和30年代には、飲食店を中心に、衣類雑貨文具を扱う店など100余店が軒を連ねていた。
 荷風はここに越して間もない昭和21年1月からしばしば食料品(わかさぎの佃煮・衣かつぎ・てんぷら・鰻蒲焼など)を買いに出掛けた。時にはここで酒やビールを飲む姿が見られた。マーケットの駅寄り中央にあった「佃幸」という店のサッチャンがお気に入りだったという。この荷風の闇市での見聞は、昭和22年11月脱稿の短編「にぎり飯」の中に織り込まれている。また、間借り生活の中で隣室のラジオの音をきらった荷風は、その音から逃れるために、しばしば市川駅の待合室で時を過ごしたが、ここで荷風が見たものは、作品「或夜」を生んだ。
 「断腸亭日乗」昭和21年8月16日条  写真「市川駅前で 昭和21年3月26日」
 写真「市川駅 昭和20年代」  写真「市川駅北口駅前十字路 昭和30年頃」  
 写真「市川三本松商店街 昭和30年頃」  図版「断腸亭日乗 昭和22年4月14日 物価記入ページ」
 図版「市川市動態図鑑」

真間

 荷風は真間川の桜並木を愛した。荷風は真間川堤の桜に、遠い日の隅田川の桜を見ていた。「真間の桜の樹齢は明治三十年頃われわれが隅田堤に見た桜と同じくらゐかと思はれる」(「葛飾土産」)と記し、桜の季節にはよくここを歩いた。
 この他に荷風が真間でよく歩いた場所に手児奈霊堂境内には、荷風の偽書を作って絶交された猪場毅(伊庭心猿)が暮らしていた。このことは、「来訪者」に詳しい。
 荷風が見た桜並木は、現在の真間小学校前にあったものである。しかし、昭和24年のキティ台風で真間川が氾濫し、家屋侵水の被害を招いたことからコンクリートの護岸工事が行われ、これに伴って桜の木は伐採されてしまった。
 荷風が見た桜の木は、今はない。
 「断腸亭日乗」昭和21年3月26日条  「断腸亭日乗」昭和22年4月16日条
 「断腸亭日乗」昭和22年3月18日条  写真「手児奈霊堂で 昭和21年3月26日」 
 写真「真間河畔 昭和22年4月16日」  写真「弘法寺境内で 昭和22年頃」
 写真「市川市街 昭和30年頃」  写真「弘法寺山門 昭和26年2月」
 写真「江戸川 昭和23年4月」  写真「つぎはし 昭和30年頃」

中山

 荷風の中山散策は、法華経寺や競馬場周辺の田園地帯を中心としていたが、荷風にとって中山は、風景散策のみならず、買物の街でもあった。
 昭和23年1月5日の日記には、「……午後中山を歩み例の如く鰻蒲焼鮒雀焼を買ふ。此の店の主人深川の者罹災後ここにて商ひをなすとい云ふ。雀焼腥(なまぐさ)からず 川海老の串聖焼きまた好し。」と記している。「例の如く」という表現によっても、この店での買物が一度や二度でないことが分かる。また、店の主人が深川の人であったことが、荷風をこの店に通わせた一因かもしれない。
 荷風の中山での散策は、短篇「畦道」を生んだ。
 「断腸亭日乗」昭和22年11月17日条
 写真「若栄会商店街 昭和30年代」  写真「法華経寺参道 昭和30年代」

原木

 荷風には、幼い頃からの奇癖があった。それは、道を歩きながら不意に小さな流れに出会うと、その源や行き先を突き止めたくなるのだという。60歳を過ぎて市川に移り住んでも、この癖はやまなかった。
 荷風は真間川の流れを追った。この川がどこを流れ、どこに至るのか、その川筋を見極めようとした。原木の妙行寺を知ったのもこの時であった。そして、川のまわりに展開する風景を日記や「展望」(昭和25年1月号)に「真間川の記」と題して発表した。この作品は後に「葛飾土産」の中に再構成されて収められた。
 「葛飾土産」について、小林秀雄は、「私は永井氏を現代随一の文章家と思ってゐるが、最近の文章では、『葛飾土産』の中にある真間川の流れを辿って歩く文章が実にいいと思った。ああいふ文は誰にも書けぬ。あの文でもよく分かるように、永井氏の文章は、観察といふ筋金が通っている処が、非常な魅力である様に思はれる。」(『荷風全集』第16巻附録昭和26年1月中央公論)と評した。
「断腸亭日乗」昭和23年11月30日条
写真「妙行寺山門で 昭和31年4月6日」  写真「原木山妙行寺」

行徳

 荷風にとって行徳は、行徳橋を中心にした散歩をすることはあったが、それ以外はバスの中からのながめにとどめ、町並みを見聞することはなかった。
 荷風が渡った行徳橋は、当時は木橋であった。
 「断腸亭日乗」昭和22年10月8日条
写真「旧行徳橋下で 昭和27年」  写真「旧行徳橋北詰 昭和31年2月10日」

八幡

 荷風が京成八幡駅近くに家を新築したのは、昭和32年、荷風77歳のことだった。荷風はここに34年4月30日に亡くなるまでの約2年間を暮らした。
 家の周辺では、深めの洗面器をかかえ、煙草を吸いながら風呂に行く荷風の姿や近くの菓子屋でかりんとうや石衣を買う姿が見られた。
 昭和34年4月30日朝、通いの手伝い婦によって、部屋でうつぶせになって死んでいるのが発見された。部屋は雑然として、畳は焼けこげだらけ、越してきて以来一度も掃除したことがなかったかのようにホコリが積もっていたという。
 死因は、胃潰瘍の吐血による心臓発作だった。
 「断腸亭日乗」昭和21年5月8日条
 写真「終焉の家」  写真「大黒家」
 写真「八幡不知森」 写真「本八幡駅北口駅前交差点 昭和30年代」

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