常設展示のご案内

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更新日: 2015年12月24日
 
 
中世以降の市川
 
  古代には国府が置かれ、下総国の中心でした。平安時代中ごろに起きた将門の乱などを契機として、後に下総の守護に任じられる千葉氏を中心とする武士団が次第に勢力を強めていきます。
 鎌倉時代になると、日蓮宗は下総に有力な信者を得、やがて千葉氏の力に支えられて法華経寺を中心とした中山門流へと発展していきました。
 戦国時代の2度にわたる国府台合戦を経て、江戸時代には大部分が天領、旗本領となり、南部の行徳の村々は幕府の軍用塩の生産地として手厚い保護を受けていました。また、江戸から房総方面への街道筋として栄え、江戸の近郊地帯としての性格をもちはじめるようになりました。
 明治時代以降、軍事上の拠点として軍隊が置かれ、耕地整理や江戸川放水路の開さくにより大きな変化がみられました。また、都市化が進んだことや、関東大震災の影響で人口が急増したことにより、市川町など3町1村が合併して県内3番目の市が誕生しました。
 
第1室、中世以降の市川
 
 
海辺の人々の生活
 
 市川市の南部は東京湾に面しています。昔、この地域には、青い海に向かって塩田がひろがっていました。現在、行徳の海は埋立によって消滅してしまい、わずかに市川大橋周辺に干潟がのこっているのみです。こうした景観の急激な変化のためでしょうか、「昔このあたりに塩田がありました」と説明しても、なかなか理解してもらえなくなっています。
 では、行徳の海で塩づくりが行われたのはいつごろなのでしょうか。史料上でうかがわれるようになるのは、今から500年程前です。このとき、南関東一帯を支配していたのは後北条氏でした。この時代を戦国時代といいます。
 やがて、打ち続く戦乱の世も徳川家康によって統一されました。天正18年(1590)8月1日、家康は江戸に入り、ここに幕藩体制300年の基礎を築きました。そして、軍事上の重要物資である塩に着眼し、塩田の整備を積極的に奨励しました。その後、塩業はいくたの盛衰を繰り返しながら継続されましたが、近代に入ると塩業にかわり海苔生産が登場しました。
 

 
第2室、海辺の人々の生活
 
 
水路と陸路
 
  道は、さまざまな歴史を経て今日の姿を見せています。かつて繁栄した道が衰退したり、人々の生活が新たな道を造りだすなど、時代の状況を反映しつつ、盛衰を積み重ねて変化してきています。
 交通路は、政治、経済と密接な関係を持つため、国家の政策にも大きく影響を受けています。交通路が整備されてきた江戸時代の市川を中心にみてみると、幕府の公用旅行者や大名の参勤交代で発展した佐倉道(公用の道)、成田山へ参詣する江戸庶民に親しまれた本行徳経由の道(庶民の道)、関東・東北と江戸を結ぶ物資の流通路として発達した江戸川(道としての川)などが挙げられます。また、家と家を結び、家と耕地をつなぐ身近な生活の道(村の道)は、当時の村絵図の中に見ることができます。
 
第3室、水路と陸路
 
台地の人々の生活
 
  市川市の北部地域は下総台地の一画をなし、そこに小さな谷津が入り込んで起伏に富んだ地形を形成しています。人々は谷津の泥深い田を耕して米を作り、台地上の畑を耕して生活してきました。
 日々の生活の中で繰り返し行われてきた仕事や行事は、変容を重ねながら、世代から世代へと受け継がれてきています。一年間の生活は主に米作りを中心にかたちづくられ、生産に伴う農耕儀礼や年中行事が折々に展開されてきました。これらの儀礼は日常生活にリズムをつくり出すものであり、また、人々の思考や行動様式を示すシンボリックな存在でもあります。
 住まい(民家)での生活は、土間部分と板の間を中心に営まれ、ここは煮炊きや食事をするばかりでなく、ワラ仕事なども行われる場でした。
 
第4室、台地の人々の生活
 
郷土と人

 
  人間社会は、個々の人間が生き抜いてきた生活の歴史によって形成されてきました。市川の歴史もまた、こうした個々の人々のつながりによって今日に至っています。
 現在「郷土と人」の中で紹介している坪井玄道は、嘉永5年(1852)に市川の鬼越で生まれ、後に「学校体育の父」と呼ばれて、体育界に功績のあった人物です。玄道は、海外の近代スポーツを日本に導入し、特にテニス、ピンポン、サッカーなどの普及と指導に努めました。
 情報コーナーでは、市内の案内をはじめ、文化財、民俗行事、資料紹介など、市川に関わる事柄を解説シートによって紹介しています。
 
第5室、郷土コーナー
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