更新日: 2010年3月26日
歴史と文化
地名発祥の由来

大永7年(1527)金海法印という山伏が、伊勢内宮の土砂を中州(江戸川区東篠崎町辺り)の地に運び、内外両皇大神宮を勧請して、神明社を建立したことに始まる。金海法印は土地の開発と、人々の教化に努め、徳が高く、行いが正しかったことから多くの人から「行徳さま」と崇め敬われたと言われている。
室町時代になって、ようやく記録上に「行徳」の地名が現れたのは、応安5年(1372)のことで、集落ができたのはそれ以前のことと考えられる。
葛飾記によれば、「惣て行徳と名付る事、本行徳金剛院の開山行人よりして起る」とある。
また、葛飾誌略では、「行徳といふ地名は、其昔、徳長けたる山伏此処に住す。諸人信仰し行徳と云いしより、いつとなく郷名となれりと。云々。其後、此庵へ出羽国金海法印といふもの来たりて、行徳山金剛院といふ。・・・天文11年(1542)也」とある。
「行人」は、「こうにん」と読めば、道を行く人、旅人、使者などの意があり、「ぎょうにん」と読めば、行者(ぎょうじゃ)の意もあります。ですから、行人とは役小角を祖とする仏教の一流派の修験者と思われる。
「法院」は、昔、僧の最高の位、山伏の別称の意とある。また高僧のことを大徳ともいう。
このようなことから、布教のために修行を積んだ僧侶たちが、山伏姿で長い年月をかけて行徳の地に度々訪れていたことが分かる。しかも、一群の人達は単に寺を建て、説教をすることをせず、村人たちと一緒になって働いたと思われる。
当時、僧侶は最高の知識を持った科学者であり、土木技師であり、哲学者であったので、字が読めない多くの人達が一緒に働いてくれるその人達にどれほど感謝したことだろう。 「行徳」の地名に込められた人々の気持ちが伝わってくる。
江戸時代に行徳領といえば、浦安、南行徳、行徳、市川、船橋の一部を含む広大な地域だった。今では行徳駅前と本行徳という狭い区域の呼称になりましたが、それでも古くから住んでいる人達は、江戸川から葛西、浦安までの地域を一括して、今でも「行徳」と愛称している。
室町時代になって、ようやく記録上に「行徳」の地名が現れたのは、応安5年(1372)のことで、集落ができたのはそれ以前のことと考えられる。
葛飾記によれば、「惣て行徳と名付る事、本行徳金剛院の開山行人よりして起る」とある。
また、葛飾誌略では、「行徳といふ地名は、其昔、徳長けたる山伏此処に住す。諸人信仰し行徳と云いしより、いつとなく郷名となれりと。云々。其後、此庵へ出羽国金海法印といふもの来たりて、行徳山金剛院といふ。・・・天文11年(1542)也」とある。
「行人」は、「こうにん」と読めば、道を行く人、旅人、使者などの意があり、「ぎょうにん」と読めば、行者(ぎょうじゃ)の意もあります。ですから、行人とは役小角を祖とする仏教の一流派の修験者と思われる。
「法院」は、昔、僧の最高の位、山伏の別称の意とある。また高僧のことを大徳ともいう。
このようなことから、布教のために修行を積んだ僧侶たちが、山伏姿で長い年月をかけて行徳の地に度々訪れていたことが分かる。しかも、一群の人達は単に寺を建て、説教をすることをせず、村人たちと一緒になって働いたと思われる。
当時、僧侶は最高の知識を持った科学者であり、土木技師であり、哲学者であったので、字が読めない多くの人達が一緒に働いてくれるその人達にどれほど感謝したことだろう。 「行徳」の地名に込められた人々の気持ちが伝わってくる。
江戸時代に行徳領といえば、浦安、南行徳、行徳、市川、船橋の一部を含む広大な地域だった。今では行徳駅前と本行徳という狭い区域の呼称になりましたが、それでも古くから住んでいる人達は、江戸川から葛西、浦安までの地域を一括して、今でも「行徳」と愛称している。
徳川家康・塩(絵)

行徳の塩業はすでに千年以上も前から行なわれていたという。
当時の行徳は江戸川の形成したデルタ地帯で、その海岸線は東西線に並行して走るバイパスの辺りであったと考えられる。
小田原北条氏が天文、永禄の二度にわたる国府台合戦で里見氏の勢力を撃退してからは、行徳で生産された塩を年貢として取り立てたといわれているが、北条氏滅亡後、徳川家康が関東を治めるようになると、家康は行徳の塩業を重視し、行徳を直轄領(天領)として治めた。
家康は、東金に幾たびか狩猟に出かけたが、その時船橋に御殿を造り、そこを中継地点として休憩、宿泊に当てた。家康はそのおり塩業関係者を御殿に集め「塩は軍用第一の品、領内壱番の宝である」といって多額の奨励金を与えたという。
家康は行徳で生産された塩を直接江戸へ運ばせるため、隅田川から中川、そして江戸川へと運河をつくらせた。
行徳を治めた代官に吉田佐太郎がいた。彼は相之川の了善寺に陣屋を置き、製塩奨励のため「塩浜の開発には五カ年間の諸役を免除し、その後は生産高の十分の一を年貢として納めればよい」という触れを出している。
塩田開発についてはこのほか、慶長年間(1596〜1625)には河本弥左衛門が関西からこの地に来て、干潟やアシの原野を開拓し、塩田をつくって塩焼きの製法を教えたところ、今日まで「塩焼」の地名が残ったという。
弥左衛門は出家して宗玄和尚となり慶長5年に建立したのが法善寺で、通称塩場寺(しょばでら)と呼ばれている。
また、寛永年間(1624〜1644)田所長左衛門が近江国(滋賀県)信楽から行徳に来て製塩業に従事したといい、江戸神田の儀平衛は、寛保3年(1743)塩浜を開発して儀兵衛新田と称し、江戸横山町の加藤作兵衛が、安永4年(1775)開発した塩田を加藤新田と称した。
明治27年総武鉄道が開通すると、輸送は鉄道に取られ行徳は火の消えたような町になってしまった。しかも塩業はだんだんと衰退し、大正6年に起こった大津波で塩田はほとんど壊滅してしまい、再起することが出来なくなった。
当時の行徳は江戸川の形成したデルタ地帯で、その海岸線は東西線に並行して走るバイパスの辺りであったと考えられる。
小田原北条氏が天文、永禄の二度にわたる国府台合戦で里見氏の勢力を撃退してからは、行徳で生産された塩を年貢として取り立てたといわれているが、北条氏滅亡後、徳川家康が関東を治めるようになると、家康は行徳の塩業を重視し、行徳を直轄領(天領)として治めた。
家康は、東金に幾たびか狩猟に出かけたが、その時船橋に御殿を造り、そこを中継地点として休憩、宿泊に当てた。家康はそのおり塩業関係者を御殿に集め「塩は軍用第一の品、領内壱番の宝である」といって多額の奨励金を与えたという。
家康は行徳で生産された塩を直接江戸へ運ばせるため、隅田川から中川、そして江戸川へと運河をつくらせた。
行徳を治めた代官に吉田佐太郎がいた。彼は相之川の了善寺に陣屋を置き、製塩奨励のため「塩浜の開発には五カ年間の諸役を免除し、その後は生産高の十分の一を年貢として納めればよい」という触れを出している。
塩田開発についてはこのほか、慶長年間(1596〜1625)には河本弥左衛門が関西からこの地に来て、干潟やアシの原野を開拓し、塩田をつくって塩焼きの製法を教えたところ、今日まで「塩焼」の地名が残ったという。
弥左衛門は出家して宗玄和尚となり慶長5年に建立したのが法善寺で、通称塩場寺(しょばでら)と呼ばれている。
また、寛永年間(1624〜1644)田所長左衛門が近江国(滋賀県)信楽から行徳に来て製塩業に従事したといい、江戸神田の儀平衛は、寛保3年(1743)塩浜を開発して儀兵衛新田と称し、江戸横山町の加藤作兵衛が、安永4年(1775)開発した塩田を加藤新田と称した。
明治27年総武鉄道が開通すると、輸送は鉄道に取られ行徳は火の消えたような町になってしまった。しかも塩業はだんだんと衰退し、大正6年に起こった大津波で塩田はほとんど壊滅してしまい、再起することが出来なくなった。
権現道

徳川家康が、東金へ鷹狩に行く際に、江戸から船で、今井の渡しに着いて、行徳を通り船橋へ行く時、家康が通った道筋を「権現みち」と呼んでいる。
この道は、行徳街道が出来る以前の古い道で、現在は途切れ途切れとなっているが、南行徳方面では内匠堀に沿って北上している。沿道には古い寺が多く、特に関ヶ島から法泉寺に至る間は道幅2メートル程の道が残っており、笹屋の裏手には教信寺、本久寺、正譖寺、円頓寺、浄閑寺、妙覚寺等の寺が並んでいる。
家康の死後「東照大権現」として祀られた為、家康のことを権現(権現様)と呼ぶようになった。
この道は、行徳街道が出来る以前の古い道で、現在は途切れ途切れとなっているが、南行徳方面では内匠堀に沿って北上している。沿道には古い寺が多く、特に関ヶ島から法泉寺に至る間は道幅2メートル程の道が残っており、笹屋の裏手には教信寺、本久寺、正譖寺、円頓寺、浄閑寺、妙覚寺等の寺が並んでいる。
家康の死後「東照大権現」として祀られた為、家康のことを権現(権現様)と呼ぶようになった。
行徳領内三十三観音札所
-江戸時代から明治年間まで、行徳・浦安に「行徳札所」と呼ばれる三十三ヶ所の観音霊場があった-
本行徳の徳願寺を皮きりに、河原・稲荷木・高谷を回り、行徳街道を南下し南行徳、浦安に至り、堀江の大蓮寺を結願とする行徳領内を「のし」の字を描くような札所めぐりである。
「葛飾誌略」によると、この札所は元禄三年(1690)、徳願寺の十世覚誉上人が起願し、自ら三十三体の観音菩薩の尊像を刻んで行徳領内の三十二ヶ寺に分け、西国札所を模したのが始まりだったという。
行徳札所は、江戸時代の中、後期江戸住民をはじめ、佐倉や印西・成田・木下・千葉など下総各地からたくさんの巡礼が訪れてきたが、明治の後半になって急速に衰え、消滅してしまった。
現在では多少の痕跡が残っている。
行徳札所は、全国の写し霊場の中でもかなり早い時期に生まれていた、それは、ちょうど江戸市民が生活にゆとりを持ちはじめ、神仏信仰にことよせて、行楽に出かけることが盛んになりはじめたころと一致している。
江戸時代後期の文化、文政ごろには江戸市民の成田山参詣や千葉寺参詣が盛んになり、江戸小網町から行徳舟に乗って行徳に上陸する江戸の人たちが多くなるにつれ、行徳札所も江戸市民にとっては、塩浜見物や潮干狩りを兼ねた近郊レジャーコースのひとつに加えられ、盛んになっていった。
ところが、明治中期ごろから急速に衰え、いつしか消滅してしまった。
「行徳郷土文化懇話会」が札所めぐりを復活すべく各寺院を回って、掛札を作り寺に納めた。しかし、残念なことに、覚誉上人が刻んで分けたという観世音菩薩像を有する寺は数少なく、観音霊場であった記録も寺には残っていなかったが、唯一十三番札所法泉寺で「十三番」の石柱が、偶然に見つかった。
札所めぐりは同会によって昭和59年(1984)に復活された。
本行徳の徳願寺を皮きりに、河原・稲荷木・高谷を回り、行徳街道を南下し南行徳、浦安に至り、堀江の大蓮寺を結願とする行徳領内を「のし」の字を描くような札所めぐりである。
「葛飾誌略」によると、この札所は元禄三年(1690)、徳願寺の十世覚誉上人が起願し、自ら三十三体の観音菩薩の尊像を刻んで行徳領内の三十二ヶ寺に分け、西国札所を模したのが始まりだったという。
行徳札所は、江戸時代の中、後期江戸住民をはじめ、佐倉や印西・成田・木下・千葉など下総各地からたくさんの巡礼が訪れてきたが、明治の後半になって急速に衰え、消滅してしまった。
現在では多少の痕跡が残っている。
行徳札所は、全国の写し霊場の中でもかなり早い時期に生まれていた、それは、ちょうど江戸市民が生活にゆとりを持ちはじめ、神仏信仰にことよせて、行楽に出かけることが盛んになりはじめたころと一致している。
江戸時代後期の文化、文政ごろには江戸市民の成田山参詣や千葉寺参詣が盛んになり、江戸小網町から行徳舟に乗って行徳に上陸する江戸の人たちが多くなるにつれ、行徳札所も江戸市民にとっては、塩浜見物や潮干狩りを兼ねた近郊レジャーコースのひとつに加えられ、盛んになっていった。
ところが、明治中期ごろから急速に衰え、いつしか消滅してしまった。
「行徳郷土文化懇話会」が札所めぐりを復活すべく各寺院を回って、掛札を作り寺に納めた。しかし、残念なことに、覚誉上人が刻んで分けたという観世音菩薩像を有する寺は数少なく、観音霊場であった記録も寺には残っていなかったが、唯一十三番札所法泉寺で「十三番」の石柱が、偶然に見つかった。
札所めぐりは同会によって昭和59年(1984)に復活された。
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三十三ヶ所一覧(一覧表の観音所名をクリックすると説明があります) | ||||
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第1番 |
浄土宗 |
市川市本行徳5-22 | 047-357-2372 | |
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第2番 |
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市川市二俣2-7-4(無住) | ||
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第3番 |
臨斉宗 |
市川市本行徳8-5 | 047-357-2241 | |
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第4番 |
真言宗 |
市川市本行徳1-10 | 047-357-6832 | |
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第5番 |
浄土宗 |
市川市下新宿5-13 | 047-357-3016 | |
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第6番 |
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市川市河原 | ||
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第7番 |
浄土宗 |
市川市河原3-6 | 047-357-3249 | |
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第8番 |
真言宗 |
市川市河原16-22 | 047-357-0966 | |
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第9番 |
真言宗 |
市川市河原 (福王寺に吸収) |
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第10番 |
真言宗 |
市川市稲荷木3-10-2 (第9番と合併して雙輪寺) |
047-377-1243 | |
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第11番 |
浄土宗 |
市川市高谷2-16-4 | 047-327-7439 | |
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第12番 |
真言宗 |
市川市高谷2-16-35 | 047-327-7631 | |
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第13番 |
浄土宗 |
市川市本行徳7-22 | 047-356-9081 | |
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第14番 |
浄土真宗 |
市川市本塩1-25 | 047-357-2943 | |
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第15番 |
浄土宗 |
市川市本行徳23-34 | 047-357-1324 | |
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第16番 |
浄土宗 |
市川市本行徳38-18 (現在は合併して教信寺) |
047-357-1279 | |
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第17番 |
浄土宗 | |||
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第18番 |
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市川市関ヶ島 (徳蔵寺に吸収) |
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第19番 |
真言宗 |
市川市関ヶ島8-10 | 047-357-1460 | |
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第20番 |
浄土宗 |
市川市伊勢宿4-8 | 047-357-2415 | |
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第21番 |
浄土宗 |
市川市押切12-20 | 047-357-2381 | |
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第22番 |
浄土宗 |
市川市湊7-1 | 047-357-2341 | |
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第23番 |
真言宗 |
市川市湊11-21 | 047-357-1643 | |
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第24番 |
浄土宗 |
市川市湊18-20 | 047-357-2232 | |
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第25番 |
浄土宗 |
市川市香取1-16-26 | 047-357-2423 | |
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第26番 |
浄土真宗 |
市川市相之川2-12-28 | 047-357-2331 | |
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第27番 |
曹洞宗 |
市川市新井1-9-1 | 047-357-8319 | |
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第28番 |
真言宗 |
市川市新井1-9-2 | 047-357-1527 | |
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第29番 |
真言宗 |
浦安市当代島2-6-27 | 047-351-3019 | |
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第30番 |
真言宗 |
浦安市猫実3-10-3 | 047-351-2332 | |
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第31番 |
真言宗 |
浦安市堀江2-4-27 | 047-351-3274 | |
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第32番 |
真言宗 |
浦安市堀江4-14-1 | 047-351-3274 | |
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第33番 |
浄土宗 |
浦安市堀江4-14-2 | 047-351-2533 | |
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番外 |
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船橋市 | ||
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○行徳で最も古い寺院 | ||||||||||||||||||||
上記の4ヶ寺で鎌倉幕府が滅亡(1333)してから100年前後に創建されている。現在<9番><10番>は、江戸川放水路を造る時合寺され雙輪寺(真言宗)となっている。他の寺院は16世紀から17世紀の創建である。 | ||||||||||||||||||||
行徳観音札所以外の寺院
| 一覧表の寺院名をクリックすると説明があります | |||
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(日蓮宗) |
妙典1-11-10 | 047-357-3304 | |
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(日蓮宗) |
妙典3-6-12 | 047-357-2221 | |
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(日蓮宗系単立) |
本行徳6-3 | 047-357-2218 | |
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(日蓮宗) |
本行徳2-18 | 047-357-4834 | |
|
(日蓮宗) |
本行徳2-8 | 047-357-2448 | |
|
(日蓮宗) |
本行徳15-20 | 047-357-3344 | |
|
(日蓮宗) |
本行徳16-20 | 047-357-1393 | |
|
(日蓮宗) |
本行徳23-29 | 047-357-3444 | |
|
(日蓮宗) |
本行徳24-18 | 047-357-2642 | |
内匠堀

>>内匠堀
塩田の開発に力が注がれていたが、一方では田畑の開墾にも目が向けられた。
しかし、行徳は砂州で形成されているために、真水を得ることが困難だった。この困難を克服して大柏川から浦安に通じる灌漑用水路(田畑に水を引くための水路)ができた。これを内匠堀、別の呼名を浄天堀といい天正18年(1590)豊臣秀吉の関東征伐後、欠真間に来往して荒地を開発、塩田、田畑の開墾につとめた狩野新右衛門(浄天)が、北条氏に仕えていた当代島(浦安市)の開発者田中重兵衛(内匠)と協力、元和6年(1620)に完成させた。
延長約三里余(12キロ)、川幅二間(3.6メートル)という大工事だった。設計と工事の指揮監督に重兵衛があたり、経費については、狩野家から多額の資金が出されているものと思われる。
内匠堀のおかげで江戸時代には一万石(約1500t)余りの水田が潤ったと伝えられ、大正6年(1917)の記録をみても、米生産は一万一千石(1650t)、水田面積五百余町歩(約496ha)で、東葛飾郡内第1位を占めている。
しかし、近年になって町も変化し田畑も次第に姿を消して行き、内匠堀も役割を終えていった。
現在も水路が残っているが、コンクリート製ですべてが暗渠となって、主に雨水の排水用として使われている。
塩田の開発に力が注がれていたが、一方では田畑の開墾にも目が向けられた。
しかし、行徳は砂州で形成されているために、真水を得ることが困難だった。この困難を克服して大柏川から浦安に通じる灌漑用水路(田畑に水を引くための水路)ができた。これを内匠堀、別の呼名を浄天堀といい天正18年(1590)豊臣秀吉の関東征伐後、欠真間に来往して荒地を開発、塩田、田畑の開墾につとめた狩野新右衛門(浄天)が、北条氏に仕えていた当代島(浦安市)の開発者田中重兵衛(内匠)と協力、元和6年(1620)に完成させた。
延長約三里余(12キロ)、川幅二間(3.6メートル)という大工事だった。設計と工事の指揮監督に重兵衛があたり、経費については、狩野家から多額の資金が出されているものと思われる。
内匠堀のおかげで江戸時代には一万石(約1500t)余りの水田が潤ったと伝えられ、大正6年(1917)の記録をみても、米生産は一万一千石(1650t)、水田面積五百余町歩(約496ha)で、東葛飾郡内第1位を占めている。
しかし、近年になって町も変化し田畑も次第に姿を消して行き、内匠堀も役割を終えていった。
現在も水路が残っているが、コンクリート製ですべてが暗渠となって、主に雨水の排水用として使われている。
>>内匠堀の水路
鎌ヶ谷道野辺「囃水」・・谷地川(鎌ヶ谷)・・大柏川(市川)・・JA本店前・・ 真間川と立体交差・・富貴島小付近(真間川と並行)・・東消防署付近・・ メディアパーク付近・・ 市川インター付近・・稲荷木・・放水路・・河原下・・徳願寺脇・・法善寺脇・・本行徳下・・関ヶ島・・伊勢宿・・光林寺・・法伝脇・・湊、香取下・・欠真間源心寺脇・・南行徳小脇・・新井下・・浦安市川市民病院付近・・当代島舟入川(船入緑道)
鎌ヶ谷道野辺「囃水」・・谷地川(鎌ヶ谷)・・大柏川(市川)・・JA本店前・・ 真間川と立体交差・・富貴島小付近(真間川と並行)・・東消防署付近・・ メディアパーク付近・・ 市川インター付近・・稲荷木・・放水路・・河原下・・徳願寺脇・・法善寺脇・・本行徳下・・関ヶ島・・伊勢宿・・光林寺・・法伝脇・・湊、香取下・・欠真間源心寺脇・・南行徳小脇・・新井下・・浦安市川市民病院付近・・当代島舟入川(船入緑道)
>>内匠十兵衛(田中内匠)
天正〜慶安(1573〜1651)の頃の人と推察され、俗に内匠十兵衛といい、江戸小岩村から当代島に移住し、同村の開墾主といわれる人である。
常に公益のため一身をささげ、善行に富み村人の信望が厚く、特に土木技術に秀でていた。墓は浦安市の善福寺にある。
>>狩野新右衛門(浄天)
新右衛門の父は天正18年(1590)北条氏照の家臣として八王子城で戦死した狩野一庵である。
新右衛門は行徳に来往し、芝増上寺の中興観智国師の教化服し、私財を喜捨し慶長16年(1611)源心寺を建立した。後に、仏門に帰依して浄天と号した。
安永6年(1629)3月25日没。夫妻の墓と供養塔は源心寺にあり、市川市の文化財に指定されている。
天正〜慶安(1573〜1651)の頃の人と推察され、俗に内匠十兵衛といい、江戸小岩村から当代島に移住し、同村の開墾主といわれる人である。
常に公益のため一身をささげ、善行に富み村人の信望が厚く、特に土木技術に秀でていた。墓は浦安市の善福寺にある。
>>狩野新右衛門(浄天)
新右衛門の父は天正18年(1590)北条氏照の家臣として八王子城で戦死した狩野一庵である。
新右衛門は行徳に来往し、芝増上寺の中興観智国師の教化服し、私財を喜捨し慶長16年(1611)源心寺を建立した。後に、仏門に帰依して浄天と号した。
安永6年(1629)3月25日没。夫妻の墓と供養塔は源心寺にあり、市川市の文化財に指定されている。
武蔵の書と応挙の幽霊の絵が見られる寺
>>海厳山徳願寺(浄土宗) 千葉県市川市本行徳5-22 電話047-357-2372
もとは普光庵とよばれた草庵で、埼玉県鴻巣市にある勝願寺の末寺であった。
慶長15年(1610)に徳川家康の帰依により、新たに堂宇が建立され、徳川の「徳」と勝願寺の「願」の二字をとって、徳願寺の名が付けられて、聡蓮社円誉不残上人を開山に創建された。
本尊の阿弥陀如来像は、鎌倉時代のはじめ、源頼朝の妻北条政子が霊夢をみて仏師運慶に命じて彫らせたもので、政子の念持仏といわれている。
はじめ鎌倉にあったものを、江戸時代に家康が二代将軍秀忠夫人のために江戸城三の丸に遷したが、夫人の逝去後、当寺2世忠残上人が請けて、当寺の本尊として安置した。
三代将軍家光からは本尊供養料として、慶安元年(1648)に十石の御朱印を賜った。
明治4年(1871)12月印旛県庁が一時本堂に置かれたことがあり、明治6年(1873)に行徳小学校が仮校舎として開校している。
もとは普光庵とよばれた草庵で、埼玉県鴻巣市にある勝願寺の末寺であった。
慶長15年(1610)に徳川家康の帰依により、新たに堂宇が建立され、徳川の「徳」と勝願寺の「願」の二字をとって、徳願寺の名が付けられて、聡蓮社円誉不残上人を開山に創建された。
本尊の阿弥陀如来像は、鎌倉時代のはじめ、源頼朝の妻北条政子が霊夢をみて仏師運慶に命じて彫らせたもので、政子の念持仏といわれている。
はじめ鎌倉にあったものを、江戸時代に家康が二代将軍秀忠夫人のために江戸城三の丸に遷したが、夫人の逝去後、当寺2世忠残上人が請けて、当寺の本尊として安置した。
三代将軍家光からは本尊供養料として、慶安元年(1648)に十石の御朱印を賜った。
明治4年(1871)12月印旛県庁が一時本堂に置かれたことがあり、明治6年(1873)に行徳小学校が仮校舎として開校している。

>>本堂
安政3年(1856)に火災にあい、大正5年(1916)徳誉信契上人により再建された。
面積は64坪、畳数95畳、柱は阿弥陀仏の四八の誓願になぞらえて48本ある。荘重な本堂大屋根の瓦には七曜の紋と葵紋がつけられ千葉氏と徳川氏との関わりを示している。
現在の本堂は平成3年に改修され、大屋根の瓦は銅板の本葺に葺きかえられた。
>>山門と鐘楼
ともに当寺最古の建物で、安永4年(1775)に建立された。
山門に安置された仁王像は明治維新の排仏毀釈により、葛飾八幡神社の別当寺法漸寺から移されたもの。
袴腰の整った鐘楼は特にめずらしいもので、行徳領ではここだけである。
安政3年(1856)に火災にあい、大正5年(1916)徳誉信契上人により再建された。
面積は64坪、畳数95畳、柱は阿弥陀仏の四八の誓願になぞらえて48本ある。荘重な本堂大屋根の瓦には七曜の紋と葵紋がつけられ千葉氏と徳川氏との関わりを示している。
現在の本堂は平成3年に改修され、大屋根の瓦は銅板の本葺に葺きかえられた。
>>山門と鐘楼
ともに当寺最古の建物で、安永4年(1775)に建立された。
山門に安置された仁王像は明治維新の排仏毀釈により、葛飾八幡神社の別当寺法漸寺から移されたもの。
袴腰の整った鐘楼は特にめずらしいもので、行徳領ではここだけである。

>>宮本武蔵の供養塔
山門を入るとすぐ左横にある石の地蔵菩薩が武蔵の供養塔である。
武蔵は、晩年出家し藤原玄信と称し諸国行脚の折りに、現在船橋の法典ヶ原の開墾に従事した。
その途中に当寺に留まっていた因縁により、水誉上人が武蔵の遺品を集めて、正徳2年(1712)に建立したものである。
山門を入るとすぐ左横にある石の地蔵菩薩が武蔵の供養塔である。
武蔵は、晩年出家し藤原玄信と称し諸国行脚の折りに、現在船橋の法典ヶ原の開墾に従事した。
その途中に当寺に留まっていた因縁により、水誉上人が武蔵の遺品を集めて、正徳2年(1712)に建立したものである。
>>永代橋水難横死者供養塔
正面入口右側に文化4年(1807)8月15日、深川八幡の祭礼のとき、押し寄せた群衆のため永代橋が、中程で壊れ、多くの溺死者が出た。そのときの水難横死者を弔うために、日本橋の成田山講中の人々により建てられたものである。
正面入口右側に文化4年(1807)8月15日、深川八幡の祭礼のとき、押し寄せた群衆のため永代橋が、中程で壊れ、多くの溺死者が出た。そのときの水難横死者を弔うために、日本橋の成田山講中の人々により建てられたものである。
>>宮本武蔵の書と達磨の絵
当寺には武蔵の落款のある書と、八方にらみの達磨の絵が伝えられている。
書は「五条」の訓えについて書かれ武蔵の思想発展の根幹を知ることができる。
絵は30センチ四方ばかりの小幅ながら雄勁な墨絵である。


>>円山応挙の幽霊の絵
応挙(1733〜1795)が旅の途中に、たまたま行徳の旅籠「志がらき」に泊り、夜中に廊下で胸を病でいた女中(同家の主婦)とばったり出会ったときの驚きがきっかけで、描かれたといわれる。
この絵は、元前田公爵の所蔵であったが、東京新川の酒商中井新右衛門が手に入れ、さらに行徳の酒問屋遠州屋の岩崎粂蔵が譲り受けた。しかし、どういうわけか遠州屋に不幸が続きやがて没落してしまい、その時に徳願寺にあずけられたものである
武蔵の絵と書、応挙の幽霊の絵は、毎年11月16日の午後3時頃、お十夜の日に限って一般公開される。
神輿づくり

>>行徳神輿
行徳の町で神輿が作られたのは、江戸中期頃からで、堅牢な神輿が有名になって、神輿づくりが盛んになった。その神輿の商談に欠かせないものが、行徳の塩だった。造られた塩が新潟、長野などの山間部へと運ばれていく時、神輿製作の依頼も受けてきたわけで、1,2年後完成した神輿はまた、塩とともに、行徳河岸から船で江戸川を下り、東京湾から隅田川を上り、千住まで行き、日光街道、中仙道を通ってソルトロード(塩の道)沿にある宿場や村に運ばれていった。
神輿は古くは仏教彫刻を生業とする仏師たちによって造られたといい、港町でお寺が多かった天領行徳に仏師が住みつき、神輿製作が始まったのではないかといわれている。
行徳の神輿は、北は北海道、南は九州まで、日本全国の神社、町会等に数多く納入されている。
行徳の町で神輿が作られたのは、江戸中期頃からで、堅牢な神輿が有名になって、神輿づくりが盛んになった。その神輿の商談に欠かせないものが、行徳の塩だった。造られた塩が新潟、長野などの山間部へと運ばれていく時、神輿製作の依頼も受けてきたわけで、1,2年後完成した神輿はまた、塩とともに、行徳河岸から船で江戸川を下り、東京湾から隅田川を上り、千住まで行き、日光街道、中仙道を通ってソルトロード(塩の道)沿にある宿場や村に運ばれていった。
神輿は古くは仏教彫刻を生業とする仏師たちによって造られたといい、港町でお寺が多かった天領行徳に仏師が住みつき、神輿製作が始まったのではないかといわれている。
行徳の神輿は、北は北海道、南は九州まで、日本全国の神社、町会等に数多く納入されている。
浅子神輿店(浅子周慶)、後藤神仏具店(後藤直光)、中台神輿製作所(中台祐信)三軒の神輿店があったが、室町末期応仁年間創業の浅子神輿店は16代浅子周慶氏の急死により、平成19年10月、500年の歴史に幕を閉じた。
現在は、唯一中台神輿製作所が製造から販売まで一貫して神輿を手掛けている。
おかね塚

寛文5年(1665)建立の阿弥陀石像がある。押切には古くから「おかね塚」の話が語り継がれてきた。
話の概要は、押切の地が行徳の塩で栄えていた頃、押切の船着場には、製塩に使う燃料が上総から定期的に運ばれてきた。
これら輸送船の船頭や人夫の中には停泊中に江戸吉原まで遊びに行く者もあり、その中のひとりが「かね」という遊女と親しくなって夫婦
約束をするまでに至り、船頭との約束を堅く信じた「かね」は年季が明けるとすぐに押切に来て、上総から荷を運んで来る船頭に会えるのを楽しみに待った。
しかし、船頭はいつになっても現れず、やがて「かね」は蓄えのお金を使い果たし、悲しみのため憔悴して、この地で亡くなった。
これを聞いた吉原の遊女たち百余人は、「かね」の純情にうたれ、僅かばかりのお金を出しあい、供養のための碑を建てた。村人たちもこの薄幸な「かね」のため、花や線香を供えて供養したという。
行徳の街が日増しに変わりゆく今日、たとえ遊女のかりそめの恋物語でも、語り伝えて供養してきた先祖の人たちの心を後世に残そうと、地元有志によって「行徳おかね塚の由来」を書いた碑が建立されている。
常夜灯

行徳は古くから塩の産地として知られ、この塩を江戸へ運ぶために開発された航路も、やがて人や物資の輸送に使われるようになった。寛永9年(1632)この航路の独占権を得たのが本行徳村だった。新河岸と呼ばれたこの船着場から江戸日本橋小網町までの間を往復した就航船を「行徳船」または「長渡船」と呼んだ。行徳船を利用した人たちには、松尾芭蕉、十返舎一九、小林一茶、渡辺崋山、大原幽学など、歴史上、文学史上に著名な人物も多く、特に文化・文政(1804〜30)の頃からは、行徳を訪れる文人墨客や、当時ますます盛んになってきた成田山参詣の講中(信者の仲間)たちによって、船着場は賑わいを極めた。
この常夜燈は、文化9年(1812)江戸日本橋西河岸と蔵屋敷の講中が、航路の安全を祈願して成田山新勝寺に奉納したもの。正面の裏面に「日本橋」と筆太く刻み、左側に「永代常夜燈」、右側に「文化九壬申年三月吉日建立」と刻み、台石には「西河岸町太田嘉兵衛、大黒屋太兵衛」ほか21名の氏名が刻み込まれている。
この常夜燈は、文化9年(1812)江戸日本橋西河岸と蔵屋敷の講中が、航路の安全を祈願して成田山新勝寺に奉納したもの。正面の裏面に「日本橋」と筆太く刻み、左側に「永代常夜燈」、右側に「文化九壬申年三月吉日建立」と刻み、台石には「西河岸町太田嘉兵衛、大黒屋太兵衛」ほか21名の氏名が刻み込まれている。
笹屋うどん

安政元年(1854)の建物がそのまま残っている。
「音のない滝は笹屋の門にあり」「行徳を下る小船に干うどん」「出ますよと笹屋に船頭声をかけ」当時旅人が船を待つ間に笹屋でひと休みして、土産に干うどんを持ち帰った。
江戸末期に店の宣伝として描いた屏風が残されている。
また、太田蜀山人が書いたとわれるケヤキの大看板も残されている。
屏風も看板も現在、市川歴史博物館に展示されている。
「音のない滝は笹屋の門にあり」「行徳を下る小船に干うどん」「出ますよと笹屋に船頭声をかけ」当時旅人が船を待つ間に笹屋でひと休みして、土産に干うどんを持ち帰った。
江戸末期に店の宣伝として描いた屏風が残されている。
また、太田蜀山人が書いたとわれるケヤキの大看板も残されている。
屏風も看板も現在、市川歴史博物館に展示されている。
行徳歴史年表(行徳郷土文化懇話会の資料)
|
年号 |
西暦 |
できごと |
| 前約2万年 | 富士山をはじめ関東周辺の火山活動が活発となり、関東平野南部に火山灰を降らせた。 市川にも、人びとが住みはじめるようになった。国府台の丸山遺跡、北国分の堀之内P地点からは、当時つかわれた石器が発見されている。 | |
| 前約1千年 | 海退が起こり、市川砂洲が発達していった。 | |
| 大化2 | 646 | 大化改新の詔が発せられた。こののち、下総の国府が国府台におかれた。 |
| 建仁1 | 1201 | 葛西の海辺、津波によって人家が流され千余人が溺死する。 |
| 永仁1 | 1293 | 津波のため当代島が全滅する。 |
| 永享3 | 1431 | 稲荷山福王寺建立、開基康信僧都。<10番> |
| 文安1 | 1444 | 聖中山正源寺建立、開基正源上人。<7番> |
| 宝徳1 | 1449 | 竜頭山竜巌寺建立、開基養誉法印。<9番> |
| 応仁2 | 1468 | 親縁山了善寺建立、開基慈縁和尚。<26番> |
| 永正6 | 1509 | 連歌師宗長、今井の渡しから行徳を通り小弓へ向かう。 |
| 大永7 | 1527 | 金海法印、行徳中洲に伊勢外宮の砂を運び、伊勢神宮を勧請する。 |
| 天文3 | 1534 | 海岸山安養寺建立、開基宥秀。<12番> |
| 天文11 | 1542 | 行徳山金剛院建立と伝えられる。別名、御行屋敷という。 |
| 天文19 | 1550 | 不動山養福院建立、開基重海法院。<8番> |
| 天文23 | 1554 | 塩場山長松寺建立、開基溟山和尚、本願主松原淡路守永正。<3番> |
| 天文年中 | 1532〜1555 | 木迎山光林寺建立、開基三誉尊了和尚。<21番> |
| 永禄5 | 1562 | 水奏山円明院建立。<23番> |
| 永禄8 | 1565 | 妙栄山妙好寺建立。開基日宣。 |
| 元亀1 | 1570 | 真宝山法泉寺建立。開山得譽。<13番> |
| 医王山東学寺建立。<31番> | ||
| 仏貼山信楽寺建立、開基富誉順公。<16番> | ||
| 元亀3 | 1572 | 照徳山本久寺建立、開基日能。 |
| 天正1 | 1573 | 正国山妙応寺建立、開基日忠。 |
| 海照山花蔵院建立、開基腎融阿闍梨。<30番> | ||
| 天正2 | 1574 | 仏法山法伝寺建立、開基観竜。<22番> |
| 天正3 | 1575 | 関島山徳蔵寺建立、開基乗意法印。<19番> |
| 法順山正讃寺建立、開基日乗。 | ||
| 天正4 | 1576 | 医王山宝性寺建立、開基権僧都覚順。<18番> |
| 天正5 | 1577 | 真光寺妙頂寺建立、開基日忍。 |
| 天正12 | 1584 | 円頓寺建立、開基律師日円。 |
| 天正16 | 1588 | 神明山自性院建立、開基法仙法印。<4番> |
| 天正19 | 1591 | 家康、東金へ遊猟の際、塩焼き方を上覧ののち、行徳の塩浜開発手当金として一千両を下付する。 |
| 文禄4 | 1595 | 秀忠、東金へ遊猟の際、塩焼き百姓を船橋御殿に召し出し、塩浜御普請金として三千両を下付する。 |
| 慶長1 | 1596 | 代官吉田佐太郎、塩浜開発奨励のため5年間の年貢を免除す。 |
| 宝珠山延命寺建立、開基(券長法)真誉法印。<28番> | ||
| 慶長2 | 1597 | 浄林寺建立、開基貝誉上人。<6番> |
| 慶長3 | 1598 | 正覚山妙覚寺建立、開基日通。 |
| 慶長5 | 1600 | 仏性山法善寺建立、開基権大僧都宗玄、いわゆる塩場寺である。<14番> |
| 浄土宗の普光院(徳願寺の前身)創立。 | ||
| 慶長15 | 1610 | 海巌山徳願寺建立、開基勝願寺中興不残上人。<1番> |
| 円福寺建立、開基日真。<2番> | ||
| 慶長16 | 1611 | 西光山源心寺建立、開基観智国師、大檀那狩野浄天。御朱印六石。 <25番> |
| 慶長19 | 1614 | 金海法印、金剛院を建立すと伝えられる。 |
| 慶長20 | ||
| 元和1 | 1615 | 題目山常運寺建立、開基日善。 |
| 十方山大徳寺建立、開基光誉快山和尚。<5番> | ||
| 元和2 | 1616 | 能山和尚により新井に真水が湧き出たので、地名を新井とする。 |
| 普門山新井寺建立。<27番> | ||
| 元和5 | 1619 | 東海山善福寺立、開基不詳、大檀那田中内匠。<29番> |
| 元和6 | 1620 | 狩野浄天・田中内匠の両人、公へ願い免許を得て内匠堀の開さくを始める。 |
| 元和年間 | 飯沢山浄閑寺建立、開基鎮誉一公。 | |
| 寛永6 | 1629 | 狩野浄天卒す。 |
| 寛永9 | 1632 | 本行徳村関東郡代伊奈半十郎の許可を得て、江戸小網町間の船路を開通。 |
| 慶安4 | 1651 | 田中内匠卒す。 |
| 津波により、行徳・葛西で民家数千戸流失。 | ||
| 寛文5 | 1665 | 押切に庚申塔建つ(おかね塚伝承)。 |
| 延宝8 | 1680 | 津波のため行徳領内で死者百余人を出す。 |
| 貞享2 | 1685 | 行徳村の権七・半右衛門の両人が津軽藩の塩田を見立てる。 |
| 貞享4 | 1687 | 松尾芭蕉、行徳・八幡を経て鹿島に吟行。 |
| 元禄3 | 1690 | 徳願寺の十世覚誉上人、三十三体の観音像を刻して諸寺へ納め、行徳三十三観音(札所)をつくる。 |
| 徳願寺、藤原新田に観音堂を建立。 | ||
| 行徳河岸が、新河岸に移される。 | ||
| 元禄4 | 1691 | 海中山了極寺建立、開基登誉。<11番> |
| 元禄10 | 1697 | 新井に妙栄信女のための法華書写塔が建つ(お経塚伝承)。 |
| 元禄16 | 1703 | 地震のため津波が起こり、浦安・行徳・船橋の被害甚大。 |
| 元禄年中 | 顕本山清寿寺建立、開基日開。 | |
| 宝永年間 | 新井寺の慈潭和尚、秋葉権現を祀る。 | |
| 正徳2 | 1712 | 徳願寺に単誉直心によって石地蔵が立てられる(宮本武蔵供養のためと伝えられる)。 |
| 享保1 | 1716 | このころ、江戸横山町升屋作兵ヱ(加藤氏)が、加藤新田の開発に着手。 |
| 宝暦8 | 1758 | 徳願寺永代十夜を始む。 |
| 宝暦11 | 1761 | 妙好寺四足門を新造。 |
| 宝暦12 | 1762 | 中山司世院出火。このとき原木の平田武右衛門が、火中より日蓮の像を発見す。 |
| 明和6 | 1768 | 本行徳に大火発生。罹災家屋三百軒という。 |
| 天明6 | 1786 | 古来稀なる大出水により江戸周辺大洪水。大津波起こる。 |
| 寛政3 | 1791 | 大津波 原木の溺死者百三十余人にのぼる。 |
| 寛政5 | 1793 | 芭蕉の百年忌を記念して、法善寺に潮塚を建つ。 |
| 寛政6 | 1794 | 徳願寺境内で相撲興業、谷風が来て土俵入りを行なう。横綱土俵入りの始め。 |
| 寛政9 | 1797 | 僧上寺崩誉大僧正、運慶作の閻魔像を徳願寺に寄贈。 |
| 寛政末年 | 葛飾北斎「ぎょうとくしほはまよりのぼとのひがたをのぞむ(行徳塩浜より登戸の干潟を望む)」を制作。 | |
| 享和1 | 1801 | 十返舎一九が行徳・船橋を経て香取・鹿島・日光を旅行。 |
| 文化4 | 1807 | 徳願寺に永代橋溺死者の供養搭が建つ。 |
| 中川瀬平、新井から二俣までの塩浜に囲堤をつくる。 | ||
| 文化8 | 1811 | 法善寺に子斎の墓碑記建つ。山本信有の撰、子斎は鬼越村岡田氏。 |
| 文化9 | 1812 | 日本橋の成田山講中が常夜灯を建つ。 |
| 文化13 | 1816 | 小林一茶行徳に来遊し、鈴木金堤より金一片を受く。 |
| 天保12 | 1841 | 高谷に境川浪右衛門が生まれる。 |
| 安政3 | 1856 | 徳願寺、山門と鐘楼のほか、ことごとく焼失す。 |
| 明治1 | 1868 | 行徳塩浜村々「塩浜仕法書」を作成。 |
| 明治4 | 1871 | 印旛県庁を徳願寺に仮設。 |
| 明治5 | 1872 | 行徳村に取締所を置き、印旛県庁を加村へ移す。 |
| 行徳村に郵便取扱所を設置。 | ||
| 明治6 | 1873 | 徳願寺を仮校舎に行徳小学校を設立。原木分校を妙行寺に、欠真間分校を源心寺に仮設する。 |
| 湊小学校を湊村法伝寺に開校。 | ||
| 明治7 | 1874 | 新井村に新井小学校を設立。 |
| 明治8 | 1875 | 河原小学校を設立。 |
| 明治9 | 1876 | 境川浪右衛門が横綱を免許される。 |
| 明治14 | 1881 | 行徳町大火で二百七十余戸が焼失。 |
| 明治20 | 1887 | 横綱境川浪右衛門歿す。 |
| 明治22 | 1889 | 行徳町役場が創設。 |
| 明治26 | 1893 | 新浜に御猟場が設けられた。 |
| 明治34 | 1901 | 浦安漁業組合蛎内海面を海苔の養殖場として使用。 |
| 明治35 | 1902 | 行徳漁業組合を組織。 |
| 明治36 | 1903 | 本行徳に塩専売局の出張所が設置される。 |
| 南行徳村、漁業組合を設立。 | ||
| 明治38 | 1905 | 行徳町に千葉県塩売捌会社が設立される。 |
| 明治42 | 1909 | 行徳町が浦安・船橋両漁業組合から漁区三万坪を借り、海苔養殖場を経営。 |
| 明治44 | 1911 | 江戸川放水路の開削に着工。 |
| 大正6 | 1917 | 大津波、被害甚大。 |
| 徳願寺が本堂を再建。 | ||
| 昭和5 | 1930 | 江戸川放水路完工。 |
| 昭和12 | 1937 | 南行徳村町制を施行、南行徳町となる。 |
| 昭和20 | 1945 | 空襲により行徳町被害を受ける。 |
| 終戦の詔勅下る。 | ||
| 昭和23 | 1948 | 行徳町農業協同組合が設立される。 |
| 昭和24 | 1949 | 南行徳漁業協同組合が設立される。 |
| 昭和30 | 1955 | 行徳町を市川市に合併。 |
| 昭和31 | 1956 | 新行徳橋完成。 |
| 南行徳町を市川市に合併。 | ||
| 昭和44 | 1969 | 地下鉄東西線が開通。 |
| 昭和45 | 1970 | 県は新浜鴨場を含む周辺湿地帯約83ヘクタールを「近郊緑地特別保護地区」に指定。 |
| 昭和51 | 1976 | 野鳥の楽園に観察舎を建設。 |
| 江戸川河川敷に生息するヒヌマイトトンボを市が記念物に指定。 | ||
| 押切の「おかね塚」に記念碑が建つ。 | ||
| 昭和53 | 1978 | 行徳支所が本行徳から末広一丁目に移転。 |
| 昭和55 | 1980 | 行徳郷土文化懇話会が発足。 |
| 野鳥観察舎が改築整備される。 | ||
| 昭和56 | 1981 | 地下鉄東西線に南行徳駅が開業。 |
| 昭和59 | 1984 | 「観音札所のあるまち行徳・浦安」が発行される。 |
|
行徳物語 宮崎長蔵・綿貫喜郎 共著 より引用 | ||
自然
宮内庁新浜鴨場

現在、宮内庁が管理している鴨場は、埼玉県越谷市の「埼玉鴨場」とここ市川市「新浜鴨場」の2ヶ所にある。
約1万3千平方メートル(約4千坪)の池があり、毎年8月末になると、野鴨の群れが、シベリア・米国・カナダなどから渡って来て翌年5月始めまで生息している。
渡り鳥は、毎年1万羽を超え、その種類は埼玉と新浜とでは多少異なるが、オオガモ・ヒドリガモ・コガモなど10数種類におよぶ。
また、カモの他にサギ類・バン類・カワウなども見られる。
初夏には、鴨場の池はシラサギの天下となる。
ここ新浜では昭和35年の頃までは、迷鳥といわれていたセイタカシギが昭和55年以来繁殖するようになった。(原則として見学は不可)
約1万3千平方メートル(約4千坪)の池があり、毎年8月末になると、野鴨の群れが、シベリア・米国・カナダなどから渡って来て翌年5月始めまで生息している。
渡り鳥は、毎年1万羽を超え、その種類は埼玉と新浜とでは多少異なるが、オオガモ・ヒドリガモ・コガモなど10数種類におよぶ。
また、カモの他にサギ類・バン類・カワウなども見られる。
初夏には、鴨場の池はシラサギの天下となる。
ここ新浜では昭和35年の頃までは、迷鳥といわれていたセイタカシギが昭和55年以来繁殖するようになった。(原則として見学は不可)

>>カモの捕獲方法と鴨場への招待
日本では古くから、網や鷹を使って野生のカモを捕らえるいわゆる鴨猟が行われており、江戸時代には、将軍家や多くの大名家が現在見られるような鴨場を各地に所有していた。
明治以降、皇室では、大名家に古くから伝わる又手網で傷つけることなくカモを捕獲する方法を採用し、この伝統技術の保存をはかり、今日に至っている。
例年11月半ばから翌年2月半ばまでの間、天皇陛下の思召しにより、在日外交官、内閣総理大臣始め閣僚、衆参両院議員、最高裁判所判事等が鴨場に招待される。
特に狩猟をスポーツとして愛好する外国人は、冬の朝、清澄な空のもとでカモの捕獲に参加することを楽しみにしている。
参加者が捕獲したカモには、係員が標識をつけ、その種類や性別等記入した後、参加者自身で放すことになっている。
このことは、宮内庁では自然保護の見地から、国際協定に基づいて行っている。
参加者はカモの捕獲・放鳥の後、昼食の接待があるが食事には、アヒルとマガモの交配種である合鴨の料理が出され、野性のカモは一切食用されていない。
元埼玉新浜両鴨場場長の故花見薫氏(関ヶ島)は、宮内庁最後の鷹匠。
【参考 宮内庁式部職「鴨場のしおり」】
※「見学会」について
宮内庁新浜鴨場は観覧施設ではありませんので、通常、一般見学はできません。市の広報紙を通じ 市川市民を対象に見学会を行っています。
<問合せ先>市川市役所 企画部 広報課 電話 047-334-1111 内線2353・2354
現在、宮内庁が管理している鴨場は、埼玉県越谷市の「埼玉鴨場」とここ市川市「新浜鴨場」の2ヶ所にある。
約1万3千平方メートル(約4千坪)の池があり、毎年8月末になると、野鴨の群れが、シベリア・米国・カナダなどから渡って来て翌年5月始めまで生息している。
渡り鳥は、毎年1万羽を超え、その種類は埼玉と新浜とでは多少異なるが、オオガモ・ヒドリガモ・コガモなど10数種類におよぶ。
また、カモの他にサギ類・バン類・カワウなども見られる。
初夏には、鴨場の池はシラサギの天下となる。
ここ新浜では昭和35年の頃までは、迷鳥といわれていたセイタカシギが昭和55年以来繁殖するようになった。(原則として見学は不可)
日本では古くから、網や鷹を使って野生のカモを捕らえるいわゆる鴨猟が行われており、江戸時代には、将軍家や多くの大名家が現在見られるような鴨場を各地に所有していた。
明治以降、皇室では、大名家に古くから伝わる又手網で傷つけることなくカモを捕獲する方法を採用し、この伝統技術の保存をはかり、今日に至っている。
例年11月半ばから翌年2月半ばまでの間、天皇陛下の思召しにより、在日外交官、内閣総理大臣始め閣僚、衆参両院議員、最高裁判所判事等が鴨場に招待される。
特に狩猟をスポーツとして愛好する外国人は、冬の朝、清澄な空のもとでカモの捕獲に参加することを楽しみにしている。
参加者が捕獲したカモには、係員が標識をつけ、その種類や性別等記入した後、参加者自身で放すことになっている。
このことは、宮内庁では自然保護の見地から、国際協定に基づいて行っている。
参加者はカモの捕獲・放鳥の後、昼食の接待があるが食事には、アヒルとマガモの交配種である合鴨の料理が出され、野性のカモは一切食用されていない。
元埼玉新浜両鴨場場長の故花見薫氏(関ヶ島)は、宮内庁最後の鷹匠。
【参考 宮内庁式部職「鴨場のしおり」】
※「見学会」について
宮内庁新浜鴨場は観覧施設ではありませんので、通常、一般見学はできません。市の広報紙を通じ 市川市民を対象に見学会を行っています。
<問合せ先>市川市役所 企画部 広報課 電話 047-334-1111 内線2353・2354
現在、宮内庁が管理している鴨場は、埼玉県越谷市の「埼玉鴨場」とここ市川市「新浜鴨場」の2ヶ所にある。
約1万3千平方メートル(約4千坪)の池があり、毎年8月末になると、野鴨の群れが、シベリア・米国・カナダなどから渡って来て翌年5月始めまで生息している。
渡り鳥は、毎年1万羽を超え、その種類は埼玉と新浜とでは多少異なるが、オオガモ・ヒドリガモ・コガモなど10数種類におよぶ。
また、カモの他にサギ類・バン類・カワウなども見られる。
初夏には、鴨場の池はシラサギの天下となる。
ここ新浜では昭和35年の頃までは、迷鳥といわれていたセイタカシギが昭和55年以来繁殖するようになった。(原則として見学は不可)
野鳥観察舎

住所 市川市福栄4-22-11 電話 047-396-9046
この行徳野鳥観察舎は、かつて新浜と呼ばれ、水鳥の生息地として世界的に知られた行徳・浦安地域一帯のうち、宮内庁の「新浜鴨場」を含む一部を水鳥や水辺の自然環境の保護のため保存・造成されたところ。千葉県指定の「行徳野鳥保護区」と宮内庁所轄の「新浜鴨場」を合わせた面積は約83ヘクタール(約25,000坪)
この中では自然環境の保護が優先され、人の利用は最小限にとどめられている。平成7年からは湿地環境の復活を目的とした再整備工事も進められ、全国にさきがけて、環境復元の実践が試みられている。
「行徳野鳥観察舎」は水鳥の観察をはじめとした社会教育施設として、昭和51年1月に開設された。昭和54年12月に3階建ての現在の建物がオープン、また平成3年3月には傷病鳥の収容、回復訓練施設が併設され、野鳥観察のみならず、野鳥保護・自然環境保護の普及啓蒙活動に利用されている。
新浜で記録された野鳥はおよそ281種、日本産鳥類の約半分。このうち野鳥観察舎では昭和51年のオープン以来249種を記録している(平成17年3月現在)。
中には日本初記録の「ヨーロッパコマドリ(ロビン)」、千葉県初記録の「ヒゲガラ」なども含まれている。
| 施設の案内 | ○初めての人でも野鳥が観察できるよう、係員が説明してくれる。 ○毎週日曜日・祝日の午後1時30分から保護区内の観察会がある。(雨天中止) ○傷ついた野鳥についての相談にのってくれる。 |
| 利用について |
○館内入場、利用ともに無料 |
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〔参考 行徳野鳥観察舎のしおり〕 | |
●このページに掲載されている情報の発信元
市川市 行徳支所 総務課
〒272-0121
千葉県市川市末広1丁目1番31号
電話:047-359-1114 FAX:047-359-1398
市川市 行徳支所 総務課
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