更新日: 2019年4月26日

市川市立妙典中学校で「夢の教室」を開催しました。

小針 清允さん(2月13日、14日)
杉内 周作さん(2月13日、14日)
東 俊介さん(2月15日)

概要

日時

平成30年2月13日(火)~平成30年2月15日(木)

場所

市川市立妙典中学校

夢先生

小針 清允(こばり きよみつ)さん 【サッカー】
読売日本SC(現 東京ヴェルディ)ジュニアユースから同ユースを経て、1996年にトップチームに昇格。GKとしてプレーされ、2001年にヴィッセル神戸、2002年にベガルタ仙台に移籍。2008年には、当時JFL(日本フットボールリーグ)に所属していた栃木SCに加入し、同年のJ2昇格に貢献しました。2010年にガイナーレ鳥取に移籍。公式戦全試合出場、JFL優勝、J2昇格を果たしました。また、各年代の日本代表にも選出され、1993年には、U-17日本代表の一員としてFIFA U-17選手権1993(現 FIFA U-17ワールドカップ)に出場。1997年には第9回FIFAワールドユース選手権(現 FIFA U-20ワールドカップ)に出場されました。2015年2月に現役を引退。

杉内 周作(すぎうち しゅうさく)さん 【パラ水泳】
小学生から水泳を始めるが、26歳まで障がいのあることに気づかず、2000年に網膜色素変性症を患っていることが判明。シドニーパラリンピックの中継を見て、アテネパラリンピックを目標に身体障がい者水泳の競技生活を始め、バタフライや自由形で当時のアジア記録をマーク。アテネパラリンピック水泳競技で男子400m自由形リレー(視覚障がい49P)にて銅メダル、400mメドレーリレー4位、100m平泳ぎ4位、100mバタフライ8位の成績を残した。北京パラリンピックは出場が叶わず、現役を引退。現在は地元の障がい者水泳チームのコーチを行う傍ら、後輩の指導育成を行っている。

東 俊介(あずま しゅんすけ)さん 【ハンドボール】
中学生からハンドボールを始め、高校2年時に国体、3年時にインターハイと国体に出場。U-18日本代表に選出されました。大学時代はU-20日本代表として世界ジュニア選手権アジア予選に出場。大学卒業後の1998年に大崎電気ハンドボール部(大崎オーソル)に加入。全日本実業団選手権や日本ハンドボールリーグ、全日本総合選手権などを制覇し、チームの9度の日本一に貢献。また日本代表としても活躍し、アテネオリンピックアジア予選や世界選手権アジア予選など数々の国際大会に出場。キャプテンも務めました。2009年3月に現役を引退。

内容

小針 清允さん
7歳からサッカーを始め、9歳の時メキシコワールドカップで活躍していたマラドーナを見て、プロサッカー選手になる夢を持たれました。その夢に近づくために全日本少年サッカー大会出場、U-17世界大会出場、東京Verdyユースで試合に出るなど目標を定めて達成していきました。しかし高校の全日本選手権で初戦敗退の一発退場をし、翌日の新聞の見出しに「日本代表守護神 暴行退場!!」と出ていました。その新聞を見た人たちからお叱りの電話を両親が受けている姿を見て、好きなことをやっていて両親に迷惑をかけたことで、精神的ショックを受け、サッカーを辞めたいとまで思ったそうです。その時母親から「夢は何?あと一歩のところまできたじゃない。そのために今まで全力でサポートしてきたんだよ。」という言葉を受け、自分の夢は自分ひとりだけの夢じゃないことに気づき、見事プロサッカー選手になるという夢を叶えられました。
小針さんは「熱い想いを持って、行動する!強い気持ちを持って、自分に負けないで!」と熱いお言葉をくださいました。

杉内 周作さん
小学生から水泳を始め、大学卒業後社会人となり、営業の仕事で車に乗っている時、何回も車をこすってしまい、上司に嫌味混じりで「目がおかしいんじゃないか?眼科に行って来い」と言われ、眼科に行ったところ、網膜色素変性症と診断され、進行性の病気だとわかりました。しかし診断を受けてすぐに水泳でパラリンピックを目指そうと決めました。そして2004年のアテネパラリンピックでメダルを取るという夢を持ち、目標を決め、毎日練習に励みました。本気で目指していたからこそ、周囲が支えてくれて、感謝の気持ちでいっぱいだったといいます。そしてアテネパラリンピックで400m自由形リレーで銅メダル獲得、100m平泳ぎで4位、400mメドレーリレー4位、バタフライで8位と好成績を残されました。しかし得意の平泳ぎでメダルが取れなかったので、次の夢は2008年の北京パラリンピックで平泳ぎでメダルを取ることにして、頑張っていましたが、代表になれませんでした。原因は天狗になってしまい周囲への感謝が足りなかったからだといい、現役を引退され、現在は2020年の東京オリンピック・パラリンピックに携わることが夢だといいます。
杉内さんは「目標や夢を考えて、頑張ることも重要だが、それ以上に人として、感謝する気持ちが何よりの重要。ありがとうという言葉を絶対に忘れないで。」と熱心にお話してくださいました。

東 俊介さん
中学生からハンドボールを始め、上手ではなかったけど身長が大きかったおかげで、高校は県内で一番強い高校にスカウトされ、ハンドボール部に入部。下手だけど日々頑張っていた時、仲間から「お前、ダメだな」と言われ、ダメと人に決めつけられるのが大嫌いだったので、ダメじゃなくなるべく、努力する習慣を身に付け、高校生日本代表にまで登り詰め、この時日本フル代表になりたいという夢を持たれました。大学は強豪校から声がかかったものの、経済面を理由に断念。お金を出してくれる大学に進学しました。そこでは天狗になっていたこともあり、周囲に対し思いやりの気持ちが足りず、先輩が部活を辞めてしまいました。この時人として1番大切なのは思いやりだということに気付き、行動を改めました。卒業後は、大崎電気からスカウトを受け、強くはなかったものの、日本代表になる夢を諦めませんでした。その結果、チームは日本リーグで9度優勝、オリンピックを目指す日本代表に選出され、キャプテンとしても活躍されました。現役を引退された後は、ハンドボールをメジャーなスポーツにするべく、様々な活動をされていらっしゃいます。
東さんは「人として思いやりの気持ちが1番大事。自分がされたら嫌なことはしない。これは誰に対しても言えること。つらい時や苦しい時こそ、思いやりを持って周囲を気にかけること。」「今の自分は過去の自分の積み重ねの結果。今の自分の積み重ねが未来の自分になっていく。あの時やってればよかったではなく、あの時やってよかったと胸を張って言えるように、後悔しないようにしてほしい。」「夢は、なれる自分ではなく、なりたい自分を考えて。障壁を考えて限界を決めて諦めてはいけない。空気ばかり読んで生きていると自分の嫌いな自分になってしまう。夢が叶わなかったとしても、それまでの過程が全て自分の力になる。無駄になることはない。」と非常に熱く語ってくださり、生徒たちも真剣にお話しを聞いていました。

本市取り組み方針

この事業は、東京オリンピック・パラリンピック競技大会に関連する本市取り組みの目標・方針のうち「方針2 こどもの体験活動の充実」に位置づけられる事業です。

関連リンク

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