更新日: 2016年12月28日
信篤・二俣界隈
名前の由来
信篤
明治29年、原木・高谷地区での小学校新設の際、初代大畑校長が、学校と子どもたちへの思いを込めて、論語の「篤信好学 死守善道」(深く信じて、学問を好み、命がけで道をみがく)から一部を引用して信篤小学校と名付けた。それ以来、田尻・二俣を加えたこの一帯の4ヵ村を信篤地区という。
二俣
二俣は「二又」、「二股」などとも書かれ、街道の分かれ道に付けられたものです。この地域の二俣の意味は、行徳と成田を結ぶ古い成田街道がここの古い集落の中で葛飾神社への道と分かれたことに由来しているようです。
回遊マップ
平成21年に行われた、信篤・二俣街回遊展の時のマップです。
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原木山妙行寺
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天文7年(1538)、円増院日進上人が開創。墓地内には、寛政3年(1791)の大津波で溺死した村人の供養塔がある。

日枝神社
1773年、後桃園天皇の時代に建立されたといわれている。今の社殿は原木山妙行寺の肝いりで文久年間に改築された。
海岸山安養寺
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行徳・浦安33ヶ所観音霊場の12番札所。天文3年(1534)に建立された。小林一茶もここを訪れている。
四国八十八ヵ所石が本堂の回廊に埋め込まれており、「はだし」で巡礼すると四国八十八ヵ所巡礼と同様の霊験があると言われています。
四国八十八ヵ所石が本堂の回廊に埋め込まれており、「はだし」で巡礼すると四国八十八ヵ所巡礼と同様の霊験があると言われています。
大鷲神社
第14代横綱境川浪右衛門が4斗俵(60kg)の米俵を鳥居の上に投げあげ、向こう側へ走って受け止める練習をしたといわれています。
海中山了極寺
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法然上人の御影を奉安した鎌倉中期の草案が起源。元禄4年再興。
高光山常明寺
境川浪右衛門が大関時代建造した宇田川家(飯塚家)の墓碑がある。
その他の情報
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