更新日: 2024年4月2日

大町・大野町界隈

 梨と将門伝説の郷「大野」。大野地区は市内北東部に位置し、名所・旧跡や昔ながらの農家が点在し、心安らぐ静寂と活気あふれる現代の営みが見事に調和した街です。
 城山と呼ばれる台地は、将門の築いた出城、大野城跡と伝えられている。成田山新勝寺には行かないとか、裏切った桔梗姫にちなんで桔梗を植えないといった言い伝えを、今でも聞くことができる。また、当地の梨は200年の歴史を有し、県内有数の生産量を誇っている。近年、武蔵野線の開通とともに、高層マンションが建設され、新しい住宅地として発展している。

自然と実りの散歩道 大町・大野町界隈発見マップ

「市川市内の町を歩いて、見て、知ってもらう参考に」と職員が手作りで地図を作成しました。地域ごとの特色を紹介していて、11種類(平成13年8月1日現在)の「散歩道マップ」があります。文化振興課で1色刷りの「散歩道マップ」を配布しています。
画像:マップ表
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マップの表ダウンロードはこちら(PDF)
画像:マップ裏
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マップの裏ダウンロードはこちら(PDF)

文化振興課でも、1色刷のものを無料配布しています。

その他大町・大野町界隈マップ

大野町回遊マップ

平成13年の街回遊展の時のマップです。丸数字は飲食店、丸英字はその時の会場です。
画像:大野町回遊マップ

城山周辺民話マップ

画像:城山周辺民話マップ

大野城跡と将門さま(弁天祠)

写真:大野城跡と将門さま(弁天祠)
市立第五中学校を中心とした台地一帯を古くは「城山」と呼んでいました。この地域には各所に土塁や空堀の跡がみられ、また昔の字名(あざな)には、御門(みかど)、殿内(とのうち)、殿台(とのだい)、殿台下、迎米(むかいごめ)、馬寄場(うまよせば)、一ノ谷(いちのや)、ニノ谷(にのや)というような中世城郭の形跡をとどめる地名が残されていました。伝承によると平将門が築いた下総西部を鎮圧するための出城であるということで、現在第五中学校敷地の北端にある小さな石の祠を、古老たちは「将門さま」と称して供養を続けています。しかし、現在の遺構からは将門の時代と結び付けることはむずかしく、戦国時代に属するものと考えられています。果たして誰が構築した城郭であったかは現在のところ不明です。(市川散歩より)

天満宮(御門)

写真:天満宮(御門)
第五中学校のグランドをはさんだ北側の高台に建つ天満宮は、関東の覇者として君臨した平将門が、天慶元年(938)京都の天満宮(北野神社)を、この地に勧請したものであると伝えています。それは、菅原道真公の像を描いた掛軸に「抑天満宮者 人王六十一代 朱雀天皇御宇 天慶元年 平親王将門公 皇都天満宮 下総大野ニ移ス」とその由来を記したものが残されています。こうしたことから、この大野の地域には城山(第五中学校のある台地)を中心に平将門伝説が古くから伝えられ、また信仰されてきたのです。現在、市川市域に残る「将門伝説」には、市域の北東部、即ち、この大野の将門崇拝伝説に対して、中部以南では菅野の不動院・御代院・八幡不知森などに、将門調伏伝説が伝えられています。掛軸は近くの石井米店に保管されており、境内には道六神、妙正大明神などが祀られています。

長屋門(板橋総本家)

写真:長屋門(板橋総本家)
 迎米の旧家板橋総本家(屋号は治郎兵衛)。800年ほど前、兵庫から落ち延びた平家の落ち武者と伝える。長らく名主を勤め、明治期には大野村戸長を勤め村役場が置かれた。長屋門には江戸時代後期の建築で、8畳ほどの番兵部屋がある。門には「福」の字が彫られている。母屋と屋敷神祠は、明治になって大工が住み込みで作ったもので、すばらしい彫刻が施されている。

迎米三社宮

 市川大野駅の東南の台地上に建つ三社宮は、迎米集落(現大野町2丁目)の鎮守で、春日、野口、熱田の三社を祀る。この場所は、元々板橋総本家の稲荷神があった場所で、明治時代になって、御門の三社宮を分祀した。10月中旬が例祭。かつてはおびしゃが行なわれ、浄光寺の住職が関与する神仏習合の名残が見られた。石段下の道六神は昭和53年建立のもの。

石井早生(梨原木)

写真:石井早生(梨原木)
 迎米公民館の北隣りの梨畑に梨「石井早生」の原木が残されている。八幡に発祥した梨作りは、都市化により明治期を中心に大野地区に移ってきた。大正5年、迎米の石井兼吉氏が「二十世紀」と「ドイツ」を交配して「石井早生」を作り出し、全国に大きな反響を呼んだ。

関連リンク

茅葺き農家

写真:茅葺き農家
 迎米には平成13年現在、4棟の茅葺き農家が確認できる。これらの農家は、屋敷林なども含め、伝統的な農村景観を保っている。数十年前までは、地元に茅場があり、近所の人がスケといって手伝い合って葺いていたが、今は材料も買い、千葉県白井町方面の屋根葺き職人を頼んで葺いてもらっている。

弁天さまとタナヤ

写真:弁天さまとタナヤ
 迎米の台地の北へりには湧き水や池がある。池はタナヤといって、種籾などを冷やしたところ。その傍らに蛇の形をした弁天さまが板碑とともに祀られている。

いぼとり地蔵

写真:いぼとり地蔵
 迎米の旧家及川総本家の近くに祀られた地蔵は、いぼができたとき塩を供えると治るといわれ、「いぼとり地蔵」とも呼ばれている。

庚申塔と馬頭観音

 バス停迎米の近くに鳥居のある一郭があり、貞享4年(1687)、享保3年(1823)などの庚申塔、文化10年(1812)から昭和33年(1958)に至る17基の馬頭観音、軍馬徴発記念碑などがある。

本将寺

写真:本将寺
 正応年間(1288~92)、日宝上人によって開山と伝える。元は谷津をはさんだ大柏小西側の台地上にあり、皆原山と号したが、現住職により、本尊一切を移し現在地に移った。身延山と号し、日蓮上人像・釈迦如来・多宝如来を本尊とする。広大な柏風墓苑を有し、境内に本覚院日惠の墓(享保7年)、寛文10年、宝暦7年の墓石などがある。
写真:三曲演奏会
平成13年の時の三曲演奏会の様子。

迎米公民館

写真:迎米公民館
迎米(大野町2丁目)地区の公民館で、大柏小学校の校舎として使用していたものを移築した、昔ながらの木造の建物。力石や半鐘なども残る懐かしい風情が味わえる。

大野ゆかりの文化人

林 翔(はやし しょう) 俳人

1914年、長野市生まれ、本名は昭。國學院大學に学び、同級に3歳年長の能村登四郎がいて、俳句を介し終生の親交を重ねることになった。卒業後、先に能村が奉職していた旧制市川中学校(現・市川学園中学・高等学校)に国語科教師として赴任し、1982年まで教壇に立った。1945年空襲で東京の自宅が焼失し市川市八幡に住いを移し、1979年に市川市大野町に移った。句歴では1940年、句誌「馬酔木」2月号に初入選を果たし、この頃から翔(しょう)を俳号・筆名とするようになる。1950年、馬酔木同人に推され、翌1951年、評論「俳句に於ける抒情」が馬酔木30周年記念号に入選・受賞し、この前後から俳句評論にも積極的に取り組むようになる。1962年、現代俳句協会を脱し、俳人協会に加入。1970年、能村登四郎主宰の句誌「沖」創刊にあたり編集主幹となった。1971年、第一句集『和紙』が第10回俳人協会賞を受賞し、ついで第二句集『寸前』(1975)、第三句集『石笛』(1981)、第四句集『幻化』(1984)、第五句集『春菩薩』(1989)を世におくった。1980年、『初学俳句教室』を刊行。1983年、評論集『新しきもの、伝統』で「沖」第150号記念号。第1回鳰賞受賞。1992年、俳人協会名誉会員に推される。現在、「沖」最高顧問。詩人の北村太郎は林翔の俳句について「〈あでやかさ〉こそ林さんの俳句の髄ではなかろうか」と評している。

梶山 俊夫(かじやま としお) 画家・絵本作家

1935年、東京生まれ。中山に住まい、若宮にアトリエを構えている。大学卒業後、1962年、洋画家として独立。同年、シェル美術賞受賞。その後1年間のパリ滞在を機に洋画家としての活動を続ける一方、創作絵本の世界でも活動をはじめる。創作絵本作品は1973、1997年の2度にわかってブラチスラバ世界絵本原画展で「金のリンゴ賞」を受賞した。創作絵本、油絵制作のほか壁画、挿絵、焼き物など活動分野も広く、近年は小出楢重の流れを汲むガラス絵の創作にも取り組み、高い評価を得ている。1998年、市川市民文化賞・奨励賞を受賞。多くの創作絵本を手がけており、作品は講談社出版文化賞、絵本にっぽん大賞などを受賞している。民話・児童文学研究家の米屋陽一氏は「動きを伴う絵画・文字からは人間愛、いや生物愛・自然愛があふれ出ており、人をひきつける不思議な力がある」と評している。ほかに『ぼくの空、蛙の空』『ききみみをたてて出かけよう』『旅の空から』などのエッセイ集や画文集がある。平成13年の街回遊展で展示したガラス絵はこれも自作の焼き物の額、陶額におさめられ、独特のあたたかみと親しみのある作品に仕上がっている。陶額は市川市大野町にある遊泥窯で制作したものである。

名鏡 勝朗(めいきょう かつお) 写真家

1940年、東京・江東区生まれ。市川市大野町在住。1963年、日本大学芸術学部写真学科卒業後、国立文化財研究所からの依託により、文化財の撮影を担当していた小沢健志教授のもとで1年間の研修を積み、さらに美術品撮影を専門としていた写真家・山本正勝のアシスタントをつとめた後独立。美術工芸品や文化財の撮影を専門とする写真家として活動している。その間、日本書誌学の第一人者である川瀬一馬博士や詩人・美術評論家の安東次男等の人々の薫陶をうけ、美術、古美術の鑑賞や接し方について多くの影響や教示を受けた。美術・古美術のほか能の舞台写真の撮影にも力をそそぎ、高い評価を得ている。撮影を担当した著作として、川瀬一馬著『夢空國師 禅と庭園』、岩田糸子・井上暁子著『アールヌーボーのランプ』、宗左近著『古美術幻妖』、原岡文子著『源氏物語 花の五十四帖』などがある。このほか五島美術館、センチュリーミュージアム、縄文芸術館、サンリツ服部美術館などが発行している図録等の写真撮影も担当している。能の舞台写真は、宝生流の演能を中心に撮影制作している。

豊嶋 辰二郎(とよしま たつじろう) 木工芸家

1932年、東京生まれ。1971年から市川に住み、現在、南大野に工房を構えている。若い頃から木工芸に関心を持って研鑚に励み、独立独歩の気概をもって各地の木工所や工房で技を磨いた。その過程でこれまで多くの工芸家や職人たちが作り得なかった変型中の変型といえる枠組みである「四方転び」の技法を完成した。1966年、自らの工房を設立し、多種多様な店舗の内装や什器の製作にたずさわり、1994年、市川市展(市川市美術展覧会)に初出品。ついで知人の画家にすすめられて新構造展に初出品して入選し、同展会友、準会員となる。1997年から市川市展において奨励賞、美術会賞、市川市長賞を受賞。1998年に千葉県美術展に入選。ついで同展で千葉市長賞を2度受賞した。現在、市川美術会委嘱。千葉県美術会会員。初期の頃は曲木の原型をつくり、それを組み合わせて上から見ると六角形や八角形、また変型に見える壺(花器)を制作していたが、現在はもっとも基本的な造形である箱作りを中心にすえて制作している。伝統工芸のもつ確かな技術を生かし、そこに芸術としての工芸美を追求している木工芸家である。

その他の情報

画像:花の見どころ江戸川沿川行徳・南行徳界隈信篤・二俣界隈中山・若宮・柏井界隈中山・若宮・柏井界隈大町・大野町界隈東菅野・本北方界隈八幡・菅野界隈曽谷・宮久保界隈市川・真間界隈国分・稲越界隈国府台・堀之内界隈
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市川市 文化国際部 文化芸術課

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