更新日: 2017年1月4日
藤野 天光 プロフィール
|市川の文化人| |
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藤野天光 ふじのてんこう 彫刻家 1903~1974
1903年、群馬県館林市に生まれる。東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)彫塑部に入学して 北村西望に師事した。早くから頭角を現し、男性の力強さをモチーフとした「鉄工」を文展鑑査展に出品して推奨を受け、第2回新文展では「銃後工場の護り」が特選に選ばれた。この作品はニューヨークで開かれた万国博覧会に出品され、注目を集めた。戦後になると、平和国家の建設には<文化>が第一と提唱し、市川在住の学者、文化人、財界人に呼びかけて<市川文化会>を結成、文化運動の火の手をあげた。以降、村上正治との交流がはじまり村上の音楽活動を全面的に応援した。制作活動も活発で、日展に出品の「ああ青春」が文部大臣賞、「光は大空より」で日本芸術院賞を受賞し、その間、北村西望作の長崎の「平和記念像」の筆頭助手をつとめるなど、数多く作品を残している。日展審査員を6回、さらに理事をつとめる一方、千葉県文化財専門委員として、文化財の保護にも積極的だった。
そのほか、日本彫刻家連盟、千葉県美術会、市川美術会、市川市芸術文化団体協議会 などの結成と運営にあたるなどしたが、1974年12月30日急逝した。のちに勲三等瑞宝章を贈られた。
しあわせとは 藤野天光
人間は、だれでもしあわせをねがっている。一体しあわせとは何であろうか。
しかしこの問いかけに即答できる人がどのくらいいるであろう。
お金がどんなにあっても、物がどれほどあったにしても、たゞそれだけでは人はしあわせとは思わない。しあわせになろうとするなら、まず物の価値を知ることである。物の価値を知るには、物を愛することであり、同時に人を愛することであると思う。
愛には対象があり、広い意味では、物あるいは人との調和ある結びつきが愛であろうと思っている。徒らに自己主張することではなく、 ”他”をうけ容れる雅量の発現といえるだろう。だから物を愛することは、ものの価値を知ることであり、また人を愛するのも、その人の人間性によるわけである。
古来、しあわせという概念については、いくつかの潮流がある。結局、人生の意義からわり出されざるを得ないものと思われるが、社会情勢の変移について流動をつゞけ、唯物主義に傾いたかとおもうと、いつしか唯物論にひきもどされながら今日に至っている。これでは往ったり来たりであって”進化”とはいえないのではないか。
ところで、現在はどうであろう。残念ながら唯物主義に流れているようである。そのために物の価値を知らないし、同時に物や人を愛することを忘れている。そして、ただ権利を主張し、物への要求にのみ走っている。それでいて、しあわせだけは追いかけているように見える。
確固とした価値観、そして自己以外への愛情がなければ、所詮うつろな生活に陥り、ついにしあわせはとらえられないのではなかろうか。
私は芸術家であるため、物の価値の追求に五十年の歳月を費やしてきた。その結果、人間は物の価値を知るということが、どんなに尊いものか、またこれを知りえたことがいかにしあわせをしみじみ味わっている。
私は、金も物も、なにもない男だが私の生活には退屈ということがない。見るもの聞くもの、これみな千変万化日々楽しく生きている。健康と平和なればこそのしあわせである。(談)
しかしこの問いかけに即答できる人がどのくらいいるであろう。
お金がどんなにあっても、物がどれほどあったにしても、たゞそれだけでは人はしあわせとは思わない。しあわせになろうとするなら、まず物の価値を知ることである。物の価値を知るには、物を愛することであり、同時に人を愛することであると思う。
愛には対象があり、広い意味では、物あるいは人との調和ある結びつきが愛であろうと思っている。徒らに自己主張することではなく、 ”他”をうけ容れる雅量の発現といえるだろう。だから物を愛することは、ものの価値を知ることであり、また人を愛するのも、その人の人間性によるわけである。
古来、しあわせという概念については、いくつかの潮流がある。結局、人生の意義からわり出されざるを得ないものと思われるが、社会情勢の変移について流動をつゞけ、唯物主義に傾いたかとおもうと、いつしか唯物論にひきもどされながら今日に至っている。これでは往ったり来たりであって”進化”とはいえないのではないか。
ところで、現在はどうであろう。残念ながら唯物主義に流れているようである。そのために物の価値を知らないし、同時に物や人を愛することを忘れている。そして、ただ権利を主張し、物への要求にのみ走っている。それでいて、しあわせだけは追いかけているように見える。
確固とした価値観、そして自己以外への愛情がなければ、所詮うつろな生活に陥り、ついにしあわせはとらえられないのではなかろうか。
私は芸術家であるため、物の価値の追求に五十年の歳月を費やしてきた。その結果、人間は物の価値を知るということが、どんなに尊いものか、またこれを知りえたことがいかにしあわせをしみじみ味わっている。
私は、金も物も、なにもない男だが私の生活には退屈ということがない。見るもの聞くもの、これみな千変万化日々楽しく生きている。健康と平和なればこそのしあわせである。(談)
プロフィール
1903(明治36) | 群馬県館林市に生まれる | |
1928(昭和3) | 25歳 | 東京美術学校(現東京芸術大学)彫塑部 卒業 北村西望に師事 |
1945(昭和20) | 42歳 | 市川文化会結成 |
1947(昭和22) | 44歳 | 日本彫刻家連盟設立に参加 |
1948(昭和23) | 45歳 | 千葉県美術会結成、常任理事 |
1949(昭和24) | 46歳 | 日展審査員(以降、52、56、59、62、69、71) |
1952(昭和27) | 49歳 | 千葉県文化財専門委員を委嘱され議長を 務める |
1953(昭和28) | 50歳 | 北村西望の長崎「平和記念像」の制作 筆頭助手を務める |
1966(昭和41) | 63歳 | 千葉県美術会理事長 |
1969(昭和44) | 66歳 | 日展理事 |
1974(昭和49) | 71歳 | 千葉県立美術館協議会委員を委嘱され 議長を務める 市川市芸術文化団体協議会会長 12月30日逝去 |
1975(昭和50) | 勲三等瑞宝章を授与される |