更新日: 2023年9月6日

水木洋子市民サポーター活動の記録2-2

水木トップ活動の記録2

水木洋子の日本女子大時代  松本圭子(水木洋子市民サポーター)
 2002年5月日本女子大学図書館で、国文学部刊行の同人誌『目白文学』に、高木富子(水木洋子の本名)の戯曲を見つけた。初めて彼女が、母校の大先輩であることを実感した瞬間だった。「鮪」(昭和3年12月)「一駄の人々」(昭和4年6月)水木の習作とも言うべき2本の戯曲は、国文学部の先生や卒業生に混じって、ひっそりと載っていた。注目された様子はない。どちらも、虐げられた人たちの鬱積した気持ちが爆発して、最後に悲劇を起こすという筋立てだ。

高木富子が府立第一高女を卒業して、日本女子大国文学部に入学したのは、昭和3年4月である。当時文壇や演劇界を賑わせた女流作家への憧れが、入学の動機らしい。日本女子大出身の平塚らいてう・田村俊子・宮本百合子等の名前が頭にあったのだろうか。それとも小山内薫演出による大胆な恋愛観で、話題をさらった「吉田御殿」(帝劇)の作者・弘津千代か、あるいは「晩春騒夜」(築地小劇場)で注目された円地文子か。 同級生・石谷三枝子さんの話では、富子さんは通学の道々「私は作家になるの!」自分の胸をたたいて、活を入れていたそうな。

昭和5年12月、国文学部主催の文芸会では、「千姫の妹」「仙人と梨果売」が、原作・脚本から舞台装置・照明・衣装・鳴物すべて学生達の手づくりで、幕を開けた。「千姫の妹」は、徳川家康の孫である千姫の妹・珠子の方が、夫・前田利常の毒殺を徳川から命令され、迷った末に自刃する時代物、後者は中国の梨売りの実態を扱った近代劇である。写真で見ると、素人離れした凝った舞台で、このとき3年生だった彼女は、道具係・舞台係の裏方で大活躍した。文芸会の前席に座った先輩作家の横顔を、舞台の袖からわくわくした誇りと嬉しさで見つめていた。

奈落を3日通るとその味が忘れられずというが、翌春の4年生送別会で、友人の松家斐子(亀井勝一郎夫人)らと西鶴の「好色五人女」の中から、歌舞伎で有名な「お嬢吉三」を脚色して、自らも出演した。終演後、紫頭巾に黒紋付を着流した侍の扮装のまま、記念撮影に近くの写真屋まで出かけて、校門前のお巡りさんに捕まっている。

今からすると嘘のようであるが、昭和初期の日本女子大は、躾のやかましいことで有名だった。地方の名家の令嬢を預かる責任感から、指導者は神経質になり、学生だけで劇場に行ったりすれば“芝居かぶれ”と判定され、寮でシャンソンのレコードを掛けただけで、保護者が呼び出され説諭を受けた。特に『改造』や『中央公論』が寮生のベッドの下から出てきたら一大事、危険思想として謹慎となった。軍靴の聞こえる厳しい時代を反映してのことである。

映画「女の園」もどきの女子大で、息を詰め過剰な躾に耐えているうちに、入学の時の感激は次第に失望に変わり、3年生も終了しようとするある日、鬱憤は爆発する。体操の着替えをしながら級友と相談し、大挙して文化学院へ転校を願い出に行くのである。文化学院の教務主任・河崎なつ先生から「保護者の方もご了解ですね。」と聞かれ、「はい。」きっぱり答えたのは“トンコ”(富子)だけ、本当に転校してしまいました、と想い出を語る親友の江津萩江さん。

考えてみると、文化学院で演劇を本格的に学んだことが、彼女の作家人生の基礎になったわけだから、彼女自身の爆発は悲劇ではなく、逆に最も大事な転機であった。

参照:水木洋子「大学物語日本女子大学」(『知性』1955年第2巻第1号河出書房)


三月会(戯曲研究会)での水木さん 堀江史朗氏からの聞き取り
佐々木正枝(水木洋子市民サポーター)

昨年夏、「水木洋子市民サポーターの活動記録1」が発行され、それからあっという間の一年が過ぎた。昨年の予定では大まかな分類はすみ、今年はそれぞれの作品について調査ができると考えていたが、実際はそんな簡単なものではなかった。未だ仕分けの段階で、水木さんの作品にふれ、水木さんの生き様を解明する楽しみはもう少し先になるようだ。水木さんは、昭和10年頃、菊池寛主宰の戯曲研究会に参加、昭和16年にはNHKの嘱託となり、ラジオドラマを中心に執筆活動を続けられた。戦後開かれた映画界に八住利雄氏の薦めもあって入り、映画のシナリオを手がけるようになるが、ラジオドラマからテレビドラマと書き続けられた。

戦前から戦後にかけての活動を知りたく、三月会のメンバーの一人新井一氏(元シナリオセンター長)に連絡したところ三年前に故人になられたとのこと、「もう少し前に来れば水木さんのことは何でも聞けたでしょうに・・・」と後藤千鶴子所長に残念がられた。そこで現在も元気な三月会のメンバー堀江史朗氏(元東宝映画文芸部長、プロデューサー、シナリオライター)を紹介され、一夕、水木さんの若い頃の活躍ぶりを伺う。

三月会は昭和23年3月に結成された戯曲研究会で、メンバーは上林吾郎、木下順二、植草圭之助、水木洋子、新井一、大木直太郎、谷崎終平(谷崎潤一郎末弟)、市川久夫、堀江史朗で、水木洋子は紅一点の参加だった。会合は月1回、場所は植草圭之助邸か新井一邸で行われた。いずれも酒豪ぞろい、酒を飲みながら喧々がくがくの論争で大変なものだった。特に植草圭之助の作品に対する批評はひどいもので、酔う程に「殺してやる!」と怒鳴るものだった。丹羽文雄の「嫌がらせの年令」を水木さんが書いてきたときも、大変な酷評で水木さんが泣きだした。これは後に新派で井上正夫によって上映されている。

昭和30年代前半「狸の会」というシナリオライター研究会ができたが、三月会のほうも、ずっと続いていたようだ。三月会の名前の由来は、堀江氏の話によると多分三月に結成されたからだろうとのこと。

堀江さんと水木さんとの出会いは、当時文芸春秋社編集部の上林吾郎(京都一中の後輩)が三月会に入れてくれた昭和24年のことで、その後民間放送連続ドラマ「ママの日記」で水木さんと共作する。当時東宝の文芸部長だった堀江さんは実名で脚本にたずさわるわけにはいかず龍野敏というペンネームで書いていたが、水木洋子のほうが男っぽい作風で、どっちが男だかわからないと飯沢匡に評された。

昭和30年には、「太郎行くところ」で当時の売れっ子作家、飯沢匡、八木隆一郎、伊馬春部、水木洋子、堀江史朗の五人で画期的なリレードラマが展開された。

水木さんより2才年下の堀江氏とは、仕事ではあるが2人で大阪まで夜行列車の旅をした仲。……堀江氏の水木さん評は、昭和2・30年代の女性ライター田中澄江、和田夏十と比しても、女性の視点で見ながら社会性のある女性らしからぬ強い構成力で、女性ライターの第一人者と言い切られた。一言でいうとサッパリとした気性で、一緒にいてもあまり女を感じない、ズケズケと男以上にものを言い、行動力の積極性は父親ゆずりのものだったのだろうか。

最後に堀江さんから聞いた水木さんの武勇伝を紹介する。三月会で侃々諤々やって、いいかげん酔っ払った五人組が、四谷駅のホームにやってきた時のこと、いきなり水木さんから命令がでた。「大の男四人、私を真ん中に入れて後ろ向きに肩を組んで塀を作りなさい。私、ズロースのゴムが切れたから直すからネ」。大の男四人の後ろ向きスクラムのなかで、水木さんがどう処理したかは誰も知らない。「ハイ 終わりッ」で後ろ向きスクラムはほどかれ、みんな良い機嫌で帰ったそうである。

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