更新日: 2018年12月14日

【終了しました】 楽山市・市川市友好都市締結20周年記念 郭沫若写真展

行事名 楽山市・市川市友好都市締結20周年記念
郭沫若写真展
会期 2001年10月30日(火)~11月4日(日)
午前10時~午後4時
会場 中山文化村・清華園
主催 市川市 国際交流課 文化課
協力 市川市中央図書館
市川市国際交流協会
中山文化村自主管理事業実行委員会

当時の写真展の展示解説

郭沫若写真展展示風景

1 故郷を離れる

 1892年、四川州楽山市(楽山県沙湾鎮)の地主・商人の家に生まれた。母の影響もあって幼少のころから詩を読むのが好きで、唐・宋詩人の五言絶句や七言絶句を暗誦した。 1913年、自らの道を進むため故郷の家をあとにし、中国各地に遊学した。

2 岡山でアンナと結婚

長兄の援助を得て日本に留学。はじめ旧制第一高等学校に在籍し、のちに岡山の第六高等学校に移った。1917年、岡山でアンナ(佐藤をとみ(とみ子))と結婚する。写真は九州帝国大学医学部を卒業した郭沫若とその家族。

3 須和田に住まう

 生来の耳疾もあり、医学の道を断念し浪漫主義詩人・作家として活動したが、蒋介石政権に追われ内山書店主・内山完造の助力で日本に亡命した。日本政府は自由な活動を許さず市川市須和田の住いに籠もることを余儀なくされたが、ここで中国古代史、金石文字の研究に没頭し『中国古代社会研究』ほかを著し、中国古代史研究に大きな業績を残した。

4 郭志鴻とともに

 亡命生活の苦しさのなかで甲骨文、金石文の研究を通じて中国古代社会の研究を深めた。その研究は石田幹之助、内藤湖南、原田淑人など東洋学者の支持を受け、『中国古代社会研究』、『甲骨文字研究』、『両周金文辞大系考釈』などの研究として結実した。父の膝に抱かれる郭志鴻は音楽の道に進み、ピアニストとして活躍した。

5 友人・小原栄次郎

 1928年夏、東京の警察に拘留され、郭沫若と親交のあつた日本橋・京華堂主人の小原栄次郎も数日間拘留された。小原は内山書店主・内山完造と親しく、日本橋で中国雑貨や中国蘭を販売する店を経営していた。また郭沫若以前に日本に留学した魯迅とも交流があつた。

6 林謙三とともに

 彫刻家で中国文化研究者の林謙三の著書『隋唐燕楽調研究』を1935年に翻訳し、翌年、林謙三はその労に感謝と敬意を表し、郭沫若の胸像を2点制作した。

7 日本脱出

 1937年、蘆溝橋事件が勃発し日中戦争がはじまった。祖国の現状を憂え、悩んだ結果郭沫若は家族にも告げず7月25日早朝、10年弱住んだ須和田の家をあとにし、抗日民族統一戦線が結成される中国に帰った。

8 救亡日報社のメンバーとともに

 中国に帰国後、上海で救亡日報社のメンバーのひとり、于立群(写真右から2人目)と知り合い、その後40年間生活をともにした。

9 周恩来、李維漢とともに

 1945年8月に日中間の戦火は止んだが、中国では国共内戦が続いた。1946年、郭沫若は重慶から上海に飛び新中国建設のために奔走した。左が周恩来、右が李維漢。

10 魯迅記念大会で

 まだ国共内戦の続く1946年10月19日、魯迅死去10周年記念大会席上で、これまでより一層魯迅精神を昂揚すべきだと説いた。魯迅は郭沫若よりはやく仙台医学専門学校(のちの東北大学医学部)で医学を学び、その後文学の道に転じた経緯があり、郭沫若と経歴に共通するところがあった。

11 新政治協商会議 

 1949年10月、中華人民共和国が成立。それに先立ち同年6月に新中国のありかたを策定する新政治協商会議準備委員会が設立され、郭沫若は副主任のひとりとして宣言の起草にあたった。前列左から3人目は朱徳、同4人目が毛沢東。後列右から4人目が郭沫若、後列左端は周恩来。

12 1955年の訪日・京都での記者会見

 1955年12月、建国間もない中国の科学代表団を率いて日本を訪れ、20日間にわたって各地を視察訪問した。近畿地区接待委員だった桑原武夫京都大学教授は「郭さんは滞在中、一流の外交官としてふるまった。(自動車の運転手に)京阪五日の滞在中、実に安全に見事に運転してもらって有難かった、ほかの運転手諸君にもあなたからよろしく礼をいっておいてほしい、と丁寧に礼をのべ、」また、「京都で内藤、狩野、浜田の東洋学の三先覚の墓参をしたのも、外交的にして真情であった」(桑原『人間素描』)と記している。

13 1955年の訪日・東大寺の鐘楼

 古都・奈良の東大寺では鐘楼にのぼって鐘をつき、その響きに聞き入った。

14 1955年の訪日・日本庭園で

 しばらくぶりで歩む日本庭園。かつての学生時代からのべ10数年にもおよぶ滞日の思い出が胸に去来しているようだ。

15 1955年の訪日・九州大学で

 かつて医学を学んだ九州大学(旧九州帝国大学)に「実事求是」と揮毫して贈った。郭沫若は書家としても著名である。

16 1955年の訪日・博多人形を愛でる。

 優美な姿態で知られる博多人形に見入る郭沫若。和服姿は博多人形制作の第一人者、小島与一師。

17 日本学術会議代表団を招いて

 1955年6月、中国を訪問した日本学術会議代表団を招いて宴を張り、団長の茅誠司日本学術会議議長、南原繁元東京大学総長らと歓談のひとときをすごした。代表団は5月上旬から6月下旬にかけて中国・ソ連を歴訪した。

18 岡山県学術文化代表団一行とともに

 1956年11月、中国を訪問した岡山県学術文化代表団を迎えて中南海で会見した。前列中央は毛沢東主席。1人おいて左が郭沫若。郭沫若は岡山にあった旧制第六高等学校に学んだ。

19 片山哲元首相と歓談

 1959年10月、日本各界から参加した中国建国10周年慶祝代表団の片山哲団長と歓談し書を贈った。かつて片山は白居易(白楽天)詩集を翻訳刊行し、郭沫若はそれに序文を寄せた。片山は社会党委員長を経て1947年に内閣総理大臣を務めた。

20 河原崎長十郎丈とともに

 抗日運動中に書いた戯曲『屈原』の公演で主役を演じた歌舞伎俳優の前進座・河原崎長十郎丈と対面、歓談した。

21 日本人学者に書を贈る

 1964年8月、歴史学の井上清、生物学の柘植秀臣など北京シンポジウムに出席した日本の科学者全員を宴に招き、席上でひとりひとりに書を贈った。中央の白服が郭沫若。その左が理論物理学の坂田昌一名古屋大学教授。

22 松山バレエ団公演に

 1964年10月、松山バレエ団公演の舞台上での記念写真。後列左側に郭沫若、松山樹子。ほかに中島健蔵、西園寺公一、清水正夫らの顔が見える。松山バレエ団は1958年に訪中公演をしている。

23 日本芸能家とともに

 1966年3月、中国を訪れた日本芸能家訪中団と会見。新内節の岡本文弥師(中央和服)から本を贈られる郭沫若。

24 日本書道訪中参観団とともに

 1966年に訪中した香川京団長(左から3人目)以下日本書道訪中参観団一行と日本の書道作品に見入る郭沫若と于立群。(右から5、7人目)ほかに西園寺公一、林林などの顔も見える。

25 松村謙三氏と再会

 1966年5月自由民主党顧問の松村謙三衆議院議員と再会をはたす。松村議員は1964年4月に訪中して中国の寥承志中日友好協会会長と覚書を交わし日中間の国交回復・貿易推進に尽力した。1971年8月に没したが葬儀には中国から王国権中日友好協会副会長が参列した。

26 日本体育協会代表団とともに

 1971年12月、河野謙三日本体育協会副会長・参議院議長を団長とする日本体育協会代表団一行を迎えた。前列左から6人目の河野団長を囲んで左が郭沫若、右が周恩来首相。

27 日中覚書貿易の調印に際して

 1962年の廖承志・高碕達之助両氏によって日中貿易の道が拓かれ、ついで覚書貿易という形で日中貿易は軌道に乗った。そして1971年12月、覚書貿易に関する政治会談コミュニケの調印により国交復活条件が明記され、ついで同月中に貿易取り決めが妥結した。そして1974年の日中貿易新協定により覚書貿易は終了した。一連の日中国交回復・貿易推進交渉にあたって郭沫若は中日の間に立って大きな役割をはたした。写真は1971年2月20日撮影のもので日中覚書貿易代表団の岡崎嘉平太、古井喜美、田川誠一、そして郭沫若、周恩来、李先念などの顔が見える。

28 国交正常化調印交渉会議中の一日

 中国、日本両国の悲願だった日中間の戦争状態の終結と国交樹立を確認した日中共同声明が1972年9月に調印され、国交正常化が実現した。その調印交渉会議中の一日、中国政府は田中角栄首相、大平正芳外相らを故宮博物館に招いた。写真手前が郭沫若、そのうしろが田中首相。

29 日中友好協会(正統)訪中団、日中文化交流協会訪中団を迎えて

 1973年10月、日中友好協会(正統)訪中団団長宮崎世民氏、副団長吉田法晴氏、日中文化交流協会訪中団団長宮川寅雄氏、副団長白土吾夫氏らと会見。

30 自宅の庭で日本の友人たちと

 1976年7月、自宅のカイドウの木の前で日本から訪れた旧友たちと歓談し記念写真を撮った。前列中央に郭沫若、その両側に哲学者の松村一人夫妻、そして歴史学者の井上清夫妻が分かれて写っている。

※写真については著作権上、ホームページ上での公開ができません


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