更新日: 2022年1月31日
郭沫若旧宅と須和田公園記念碑
郭沫若旧宅(市川市須和田2-3-14)
郭沫若は、1916年の第六高等学校時代、東京京橋病院看護婦の佐藤をとみ(とみ)と出会い、翌年結婚する。
1923年九州大学卒業後、上海に帰国するが、蒋介石との対立により、妻の郷里である日本に1928(昭和3)年亡命し、上海当時の知人、作家村松梢風の紹介で市川に居を定めた。
はじめは、村松の知人横田家の近くに住んでいたが、警視庁に三日間も拘留されて厳しい尋問を受けたこともあって、他に累が及ぶのを恐れて、須和田六所神社わきの小道を入った家に越す(現在の旧宅:昭和3年2月建築)。
ここで警官や憲兵の絶え間ない監視を受けながら、9年5ヶ月間苦しい亡命生活を送った。その生活の様子は、『海涛』『帰去来』などの自伝に記されている。
1937(昭和12)年7月25日、日中戦争の勃発を見て、妻と4男1女を残し中国に帰国した。
昭和31年、妻をとみ(とみ)の渡中により、現所有者に売却。以降、民間人に賃貸されていたが、昭和54年3月から、旧宅の保存を目的として市が借り受けることになった。その間、郭沫若の四男郭志鴻(しこう・音楽家)氏が仮住まいしたこともあったが、老朽化が進んだことなどから、平成11年3月をもって借り受けを解約した。
平成16年9月、真間に旧宅を移築・復元し、「郭沫若記念館」とする。
移築復元前の旧宅。
写真左側が書斎部分。庭先に泰山木が植えられている。
「別須和田」詩碑(須和田2-34 須和田公園内)
1955(昭和30)年2月、中国学術文化視察団の団長として、日本学術会議の招きで訪日した際、旧居を久しぶりに訪れた感慨を、格調高く歌いあげた長詩が「別須和田」(須和田に別る)である。
1964(昭和39)年春、日中友好協会市川支部により詩碑の建立が発起され、郭自身による揮毫も同年7月13日には出来上がり、1967(昭和42)年4月16日、旧宅にほど近い須和田公園内に黒御影石の詩碑が建立された。郭のレリーフは、中山在住の彫刻家大須賀力によるもの。
詩文については、『市川の文学』(市川市教育委員会)、『郭沫若詩集(増補版)』(未来社)などに詳しい。
市川市楽山市友好都市締結15周年記念碑(須和田2-34 須和田公園内)
1996(平成8)年、市川市楽山市友好都市締結15周年を記念して、市川市長と楽山市長の連名による記念碑が、須和田公園内の「別須和田」詩碑の近くに建立された。
「市川市と楽山市は世界の平和と国際親善を希求し、友好都市の盟約を結び、今日まで十五年の歩みを進めてきた両市民の新たなる「平和」の願いをここに記す 市川市長 高橋國雄」
「沫水若水江戸の波涛に連なる 文豪その偉大なる筆を以って中日の山川を描き 牡丹桜ともに園内春色に染め 人民の真心友好の詩歌を奏でる 楽山市長 劉」