更新日: 2018年11月7日
村松 秀太郎 プロフィール
|市川の文化人| |
プロフィール
1935年 | 静岡県清水港に生まれる | |
1961年 | 東京藝術大学美術学部絵画学科卒業 | |
1963年 | 東京藝術大学専攻科卒業 | |
新制作春季展受賞 | ||
1964年 | アンコール・ワット(カンボジア)及び東南アジア取材旅行 | |
中央公論新人展出品 | ||
1968年 | ビンセント・コレクション(アメリカ)買い上げ | |
1975年 | 多摩美術大学講師(~’81) | |
1976年 | 第3回創画会展にて受賞(春、秋) | |
個展(フマギャラリィー) | ||
1978年 | 創画会会員推挙 | |
1981年 | 山形県金山町役場の大壁画完成(32m×2.6m) | |
1983年 | 清水市新市庁舎大壁画完成 陶板(10m×4m) | |
1986年 | 個展(セントラル美術館) | |
1988年 | 2月 | “私の美術館”12チャンネル |
7~8月 | 天山南路パミール、カラコルム、ガンダーラ、スケッチ旅行 | |
1989年 | 2月 | 「日本画の裸婦」展 埼玉県立美術館 |
1990年 | 2月 | 個展(日本橋高島屋) |
9月 | 「日本画-現代の視覚-その模索と実験」出品(新潟市美術館) | |
1992年 | 10月 | パネルディスカッション「歴史から見た日本人のアート感」 鈴木進、三枝成彰、村松秀太郎 静岡県立美術館 |
1995年 | 8月 | 日経新聞 渡辺淳一作「失楽園」挿絵始まる |
11月 | 「膠彩画」について4ヵ国シンポジウム 於台湾、中国、韓国、日本(代表上村淳之氏と共に) |
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1998年 | 3月 | 江崎玲於奈学長と二人のトークショウ ジョイフルホンダ(土浦市) |
筑波大学退官記念展(つくば美術館) | ||
4月 | 村松秀太郎自選展(日本橋・高島屋大ホール) | |
1999年 | 10月 | [狩野派の発祥の地と私]講演会 生涯学習センター(土浦市) |
12月 | 「増上寺襖絵完成記念展 ギャラリー清水(銀座) | |
2000年 | 大阪芸術大学教授 | |
2003年 | 週刊新潮5月号[家康と次郎長の握手] 文、村松友視、挿絵、村松秀太郎(清水、静岡市合併記念) |
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2008年 | 大阪芸術大学教授退官。退官展(大阪芸大美術館) | |
創画会脱退 | ||
村松秀太郎展 東京日本橋 日本画廊 |
日本美術家連盟委員 市川市真間在住
関連リンク
村松秀太郎は21世紀のパブロ・ピカソである
村松芸術を鑑賞し、絵解きしようと、世の評者たちは苦闘する。そして、さまざまなキーワードをこれまで紡いできた。たとえば生と死と愛、あるいは豊饒な生命力と官能。そのほか、反骨・反権威・反権力・反アカデミズム、謳歌と挽歌、情念と狂気、捺落と救済、此岸と彼岸、宇宙と混沌、煩悩と解脱、歓楽と慟哭などなど、挙げたら切がない。
切がないし、そもそも村松芸術は、言葉では表わせないのである。創造性豊かな表現力、その気迫に満ちた作品を前に立つとき、いつも感ずるのは、言葉で表現することの空しさ、無意味である。どのような言葉を投げかけても、作品の存在に跳ね返されてしまうのだ。
言葉の無力といえば、パブロ・ピカソの裸婦画論を想い出す。「私は裸婦を語りたいのだ。裸婦を裸婦として描きたいのではない。(中略)絵では一目見るだけで、裸婦が自らが何であるかを、文章にせずに語ってくれるのだ」という。この言はすべての絵画に通ずる。つまり観る者は、その作品の語り口に耳を傾け、静かに聞き取ればいいのだ。
村松芸術の鋭く激しく、ときには温く優しい語り口は、少年時の原体験を深く重く秘めている。静岡県清水港生れの少年秀太郎は、海で泳いで濡れた身体を、岸壁に押しあて、魚拓ならぬ人拓を描いては愉しんだ。だがその人拓は、またたく間に乾いて消えてしまう。この喪失感、この世の存在の儚さに、少年は強い衝撃を覚えたという。この衝撃は、戦時の体験がいっそう深めた。アメリカ空軍の爆撃による近親者の死、そして少年自身も、機銃掃射や爆弾の恐怖を経験した。またのちに高校時代、広島の原爆記念館で観た人影痕に戦慄したという。
ピカソにまた思いを馳せる。地中海に面したスペイン南部の港町マラガ生れのピカソには、自身の体験ではないが、ドイツ空軍のゲルニーカ町無差別爆撃に抗議した作品「ゲルニカ」がある。また作品「エロチカ」は、村松芸術のエロティシズムに通じるような気がする。二十世紀を代表するピカソ。いまの二十一世紀を代表するのは村松秀太郎だと、村松贔屓のわたしは思っている。
切がないし、そもそも村松芸術は、言葉では表わせないのである。創造性豊かな表現力、その気迫に満ちた作品を前に立つとき、いつも感ずるのは、言葉で表現することの空しさ、無意味である。どのような言葉を投げかけても、作品の存在に跳ね返されてしまうのだ。
言葉の無力といえば、パブロ・ピカソの裸婦画論を想い出す。「私は裸婦を語りたいのだ。裸婦を裸婦として描きたいのではない。(中略)絵では一目見るだけで、裸婦が自らが何であるかを、文章にせずに語ってくれるのだ」という。この言はすべての絵画に通ずる。つまり観る者は、その作品の語り口に耳を傾け、静かに聞き取ればいいのだ。
村松芸術の鋭く激しく、ときには温く優しい語り口は、少年時の原体験を深く重く秘めている。静岡県清水港生れの少年秀太郎は、海で泳いで濡れた身体を、岸壁に押しあて、魚拓ならぬ人拓を描いては愉しんだ。だがその人拓は、またたく間に乾いて消えてしまう。この喪失感、この世の存在の儚さに、少年は強い衝撃を覚えたという。この衝撃は、戦時の体験がいっそう深めた。アメリカ空軍の爆撃による近親者の死、そして少年自身も、機銃掃射や爆弾の恐怖を経験した。またのちに高校時代、広島の原爆記念館で観た人影痕に戦慄したという。
ピカソにまた思いを馳せる。地中海に面したスペイン南部の港町マラガ生れのピカソには、自身の体験ではないが、ドイツ空軍のゲルニーカ町無差別爆撃に抗議した作品「ゲルニカ」がある。また作品「エロチカ」は、村松芸術のエロティシズムに通じるような気がする。二十世紀を代表するピカソ。いまの二十一世紀を代表するのは村松秀太郎だと、村松贔屓のわたしは思っている。
エッセイスト 秋山 忠彌