更新日: 2024年2月2日

八幡・菅野界隈

案内・ガイドマップ

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市川市八幡というと、”東京に近い住宅街””商業集積地”というイメージが強いでしょうが、「やわた」の地名の由来となった「葛飾八幡宮」は、平安時代に創建された由緒ある神社で、地元では「はちまんさま」の愛称で知られています。

八幡は、この八幡さまを中心に発展したまちで、八幡さまは”八幡のへそ”ともいえます。

八幡は、黒松に囲まれた閑静なお屋敷街としての風情も残り、永井荷風、水木洋子、岡晴夫などが暮らしていました。

賑やかな喧騒を抜けて耳を澄ませば、きっと八幡の歴史が聞こえてくるはず。さぁ、回遊マップを手に八幡の街をそぞろめぐり、今まで知らなかったまちの魅力を感じてみませんか?

地域のあらまし

八幡は市川市の中央部に位置し、寛平年間(889-898)に勧請された八幡宮を中心に発展した町です。八幡の中央を通る国道14号線は、江戸時代にも官道として江戸と佐倉を結ぶ重要な幹線道路となっており、街道筋は八幡宿(やわたしゅく)として栄えました。

しかし、この地域は東京湾に面した砂浜と、真間の入江の湿地帯に挟まれているため、耕地には恵まれない地域だったのです。

明和年間、貧しい農民の生活を脱するためには、土地に合った特産品を作り出す他はないと、梨の栽培に精魂を込めたのが川上善六(ぜんろく)で、ついにその栽培に成功「八幡梨」として世に広めました。この梨栽培はやがて四方に広まり、「市川梨」へと発展し、今日のように市川市の特産物 とまでなったのです。昭和9年、市川、中山、国分と共に市川市を構成、市域の中央部にあるところから市役所が置かれ、交通の便から総武線に本八幡駅が設置されました。また八幡宮境内には公民館、市民会館、図書館などの文化施設が集められました。

明治45年、八幡町が中心になって行った耕地整理の結果、真間川が改修され、スゲなどの密生していた菅野にも耕地が広がり始めました。この菅野には太平洋戦争後、永井荷風(ながいかふう)、幸田露伴(こうだろはん)などの文士が居住し、またこの地は彼らの終焉の地ともなったのです。
(『市川散歩NO.2 八幡・曽谷・大野』市川市教育委員会より)

屋敷街の散歩道 八幡・菅野界隈発見マップ

「市川市内の町を歩いて、見て、知ってもらう参考に」と職員が手作りで地図を作成しました。地域ごとの特色を紹介していて、11種類(平成13年8月1日現在)の「散歩道マップ」があります。

いちかわ屋敷街の散歩道マップ表 いちかわ屋敷街の散歩道マップ裏

各マップ画像をクリックすると、大きな画像で見られます

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葛飾八幡宮

寛平年間(889-898)宇多天皇の勅願によって、京都石清水八幡宮を勧請したものです。武神として古くから源頼朝、太田道灌、徳川家康など武人の崇敬を集めました。

そして明治維新までは、天台宗の八幡山法漸寺が別当寺として管理していましたが、廃仏毀釈によって廃寺になりました。社殿の前の鐘楼は往時を物語る遺物です。

また山門に安置されていた仁王像は行徳の徳願寺に移され、その後には左大臣、右大臣の像が置かれて随神門と呼ばれるようになりました。ほかに「千本公孫樹」「元亨の梵鐘」などがあります。

祭礼は9月15日から6日間にわたり行われ、そのとき俗に「八幡のぼろ市」と呼ばれる近郷に名高い農具市がたちます。また、2月の初卯祭は湯立て神事、宮司舞などをもって祭事が進められる、異色ある祭りです。
(『市川散歩NO.2 八幡・曽谷・大野』市川市教育委員会より)

葛飾八幡宮散策マップ図

原画 田草川信慈 (いちかわ・まち研究会『市川まちかど博物館』エピック 1997より)

写真:葛飾八幡宮

平安時代に創建され、”八幡”の地名の起こりにもなった由緒ある神社。
玉垣の中には、源頼朝駒どめの石、千本公孫樹、梵鐘、力石などの見どころがある。
葛飾八幡宮の境内は、「八幡のぼろ市」が開かれることで有名。昔は、見世物小屋やサーカスなども行われた。境内には、岡晴夫歌碑、野外彫刻(藤野舜正作、大須賀力作)、八幡音頭歌碑、小林一茶句碑などがある。

葛飾八幡宮御由緒

御創建は平安朝の昔、寛平年間(889-898)宇多天皇の勅願により下総の国総鎮守八幡宮として御鎮座、以来歴朝の御崇敬篤く、代々の国司・郡司をはじめ、国民の信仰深く、下総の国における葛飾文化、八幡信仰の中心となり、なかでも平将門の奉幣、源頼朝の社殿改築、太田道灌の社壇修復後、徳川家康の御朱印地社領52石の寄進等その尊信は篤いものでありました。また、御主神応神天皇の御事蹟により、文教の祖神、殖産興業、殊に農業守護の神として近郊の信仰をあつめております。毎年9月15日の御例祭日より20日まで、広大な境内で催される農具市の盛況さは、古来より関東一と称されています。
(『下総国総鎮守葛飾八幡宮』より 以下 同パンフレットより引用)

葛飾八幡宮御祭神

東御前
息長帯姫命(神功皇后)
おきながらたらしひめ
仲哀天皇の皇后で、応神天皇の御母です。武内宿禰と議り懐胎の御身をもって男装して海を渡り、新羅を征せられた後、筑紫に凱旋し、無事応神天皇をお生みになりました。この御事蹟から、武運・安産の神として尊崇されました。
中御前
誉田別命(応神天皇)
ほむだわけのみこと
仲哀天皇の皇子で、御母は神功皇后です。天皇は深く内外の政治に大御心を用いられ、文学を奨励し、数多くの地溝を開き、灌漑の便をお計りになられたことから、厄除開運の御神徳と共に、わが国文教の祖、殖産興業の守護神として崇められました。
西御前
玉依姫命
たまよりひめのみこと
鵜葺草不合命の后、初代の天皇であらせられる神武天皇の御母神で、婦道に御功績が多く、育児の神として信仰されています。

葛飾八幡宮御祭儀

1月1日 午前9時 歳旦祭
1月15日 午前10時 月次祭(家内安全祈願祭)
2月節分日 午後2時 節分祭
2月立春後の初卯日 午後1時 初卯祭(湯花神事)
2月11日 午前9時 紀元節祭
2月17日 午前9時 祈年祭
6月30日 午後6時 6月大祓式(茅の輪神事)
9月15日 午前10時 例大祭(20日まで農具市)
11月23日 午前9時 新嘗祭
12月23日 午前9時 天長節
12月31日 午後4時 12月大祓式(茅の輪神事)

例大祭

毎年9月15日午前10時より御神前にて氏子総代・崇敬者多数参列のもと、祭典が厳粛のうちに執り行われます。御社頭門前には20日までの6日間、農具・日曜大工用品をはじめ各種の店が立ち並び、大勢の人出で賑わいを見せます。また、33年毎に式年大祭が行われ、前回の平成29年には大変盛大な賑わいでした。

初卯祭(湯花神事)

2月の立春をすぎた最初の卯の日は、八幡様のご誕生の日で宮司舞と湯花神事が行われます。宮司のとりもつ熊笹で湯をかけてもらうと一年間無病息災ですごすことができ、四方に立てられた斎竹の葉を家にもちかえってお祀りすると悪霊を防いでくれるといわれ、むかしから行われている神事です。

大祓式(茅の輪神事)

人型の紙に自分の名前と年令を書き、三度息をふきかけて今までの身の穢れを人型につけ、さらに茅の輪をくぐって災厄を祓う神事が6月晦日と12月大晦日に執り行われます。

境内の摂末社ほか

葛飾天満宮 厳島社 尾上稲荷社 八坂社 浅間社 
富士塚 江戸時代の儒学者・亀田鵬斎筆による道祖神 源頼朝駒どめの石

写真:葛飾八幡宮の大絵馬

平成14年の街回遊展で特別展示された江戸時代の大絵馬

写真:葛飾八幡宮の神楽面

平成14年の街回遊展で特別展示された神楽面

宵祭り(やわたまつりの前夜祭)

3年に一度行われるお祭りの前夜祭。大神輿や子ども神輿の展示と縁日が開かれる。

写真:宵祭りの様子

写真:宵祭りでの演奏の様子

写真:宵祭りでの神輿の展示

やわたまつり

3年に一度行われるお祭り。八幡の街に向けて大神輿が巡行します。

写真:やわたまつりの様子

写真:やわたまつりでの神輿巡行の様子(1)

写真:やわたまつりでの神輿巡行の様子(2)

写真:やわたまつりで八幡音頭を踊る様子

昭和31年ICA(旧市川民謡連合会)初代会長が八幡の唄を作ろうとビクターに依頼し、市丸、曽根四郎による「八幡音頭」が完成した。この音頭が、現在のICAの活動の原点です。葛飾八幡宮に奉納され歌碑もあるゆかりの境内で、300人による一大披露。あなたも一緒に踊ってみよう!

千本公孫樹

写真:葛飾八幡宮の千本公孫樹

関連リンク

八幡不知森

写真:八幡の藪知らず

市役所の前にある「八幡不知森(やわたしらずのもり)」は゛藪知らず(やぶしらず)"として全国に知られた名所の一つです。

この藪知らずには古来多くの話が伝えられていますが、中でも次の話は有名です。それは天慶(てんぎょう)の乱のとき、平貞盛(たいらのさだもり)がこの地に「八門遁甲(はちもんとんこう)の陣」を敷いたが死門の一角を残すので、この地に入るものには必ず祟りがあるとの言い伝えがありました。

のちにこの話を聞いた徳川光圀(みつくに)は馬鹿げた話と藪に入ったところ、果たせるかな白髪の老人が現れ「戒めを破って入るとは何事か、汝は貴人であるから罪は許すが、以後戒めを破ってはならぬ」と老人の怒りを被ったといいます。

この他「藪知らず」については、この地が行徳の入会地(いりあいち)であり、八幡の住民はみだりに入ることが許されず、そのため「八幡知らず」と言われたのが藪知らずになったともいいます。

写真:明治末期の藪知らず

明治末期の藪知らず

旧中央公民館(現存していません)

写真:解体前の旧中央公民館

※旧中央公民館は令和3年11月末をもって閉館し、解体されました。

新潟県柏崎市大久保の小熊容徳氏(旧国鉄信越地区自動車局長)邸を昭和26年に解体運搬し、昭和27年5月5日に市川市公民館(その後の中央公民館)として開館しました。

小熊家は旧幕時代からの庄屋で、容徳氏の祖父の六郎氏(新潟県令)が明治初年に建築したこの建物は、小高い丘の広大な敷地に君臨していて、特に使用されていた木材は十年枯らしたという立派なものでした。

明治10年に明治天皇が北陸を巡幸された際、大広間にお泊りになったということが、柏崎海岸の御野立公園の巡幸碑に記されています。明治の元勳・徳大寺公爵や山県有朋なども訪れたという由緒ある建物でした。

建物の老朽化に伴い平成2年に改築を行った際も、玄関・ロビーは昔のままの姿を残しました。

川上善六翁遺徳碑

市川の特産品には”梨”があります。現在では主に市東北部の台地上で栽培されていますが、その起こりは「八幡梨」といって、明和7年(1770)八幡の川上善六によって始められたものです。

八幡の土地は砂地であるため農作物には適さず、農家の生活は楽ではありませんでした。善六はなんとかこの地に適した特産品を作りたいと日夜頭を悩ませていましたが、砂地に梨栽培の適していることを知りました。当時、美濃国(岐阜県)で梨栽培が盛んであることを聞いた善六は、現地に行って栽培方法を研究しました。そして接穂(つぎほ)を持ち帰り、八幡宮境内に接木(つぎき)に成功しました。かれは以降品種の改良に努め、やっと良質の梨を作り出すことができたのです。善六はこの栽培を農家に勧め、「八幡梨」として売り出したので、その名は江戸をはじめ近郷に知られるようになりました。そして八幡はもちろんその周辺に広まって行き、八幡梨はいつしか「市川梨」と呼ばれるようになりました。このことから川上善六は梨祖(りそ)と仰がれ、大正4年には「川上善六遺徳碑」が八幡宮境内に建てられ、その偉業を今日に伝えています。

東昌寺

写真:東昌寺の境内

天正年間(1573-92)太誉和尚(たいよおしょう)の創建した寺で、当初は八幡6丁目の冨貴島小学校付近にありましたが、寛永元年(1624)に万明(ばんめい)和尚が現在地に移したものです。墓地内には慶応4年(1868)の戊辰戦争(市川船橋戦争)のため、八幡で戦死した官軍兵士3名を葬った2基の墓石が建てられています。

十二社神社

写真:十二社神社

昔の古八幡村の鎮守で天神5社、地神7社、合わせて12社を祭神とする。庚申塔などもある。

市川市役所

昭和9年11月3日、市川町、八幡町、中山町、国分村の3町1村が合併して誕生したのが市川市です。この「市川市」は、上下、左右どちらから読んでも市川市という簡潔な名称であるところから付けられた市名だといいます。

市役所は市域の中央部である八幡に置くことになり、その場所が検討されましたが、たまたま国道に面した現在地に八幡座という芝居小屋があり、不景気のため経営困難であったところから約400坪ほどの敷地を市に売却し、昭和10年3月に木造2階建ての市庁舎が落成しました。

戦後市域の発展と人口の増加などによって役所の組織も多様化し、庁舎が狭くなったため、昭和34年に鉄筋5階建ての新庁舎を竣工、さらに昭和46年には第2庁舎、昭和54年には第3庁舎が新設され大きく発展しました。

その後、老朽化などのため、平成23年から令和2年にかけて庁舎の建替えを行うことになりました。平成29年に市川インター近くに新第2庁舎が、令和2年には元々庁舎があった場所に新第1庁舎が完成しています。

写真:市役所旧庁舎(昭和10年3月完成)

旧庁舎

招き猫

写真:南八幡の招き猫像

文学の道 近代文学のみち

市川市教育委員会制作のパンフレット。
画像をクリックすると大きな画像でご覧いただけます。
(大きな画像はウィンドウにあわせて小さく表示される場合があります。画像の右下にカーソルを合わせると、拡大のアイコンがでますので、お試しください。)

市川の散策道(八幡・曽谷・大野)

画像の一部リンク先では、詳しい情報をご覧いただけます

白幡天神社白幡天神社 葛飾八幡宮随神門 梵鐘(元亨元年在銘) 不動院 不動院 曽谷貝塚 曽谷貝塚 浄光寺二王像 浄光寺二王像 駒形大神社の御奉謝 ヒメアカネ 自然博物館

八幡・曽谷・大野地図

その他の情報

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