更新日: 2024年5月8日
国府台・堀之内界隈
地域のあらまし
下総台地の最西端、江戸川を隔てて東京都に向かい合うこの地域は、市川市でも古い歴史をもち、国府台には法皇塚古墳(ほうおうづかこふん)が現存しています。国府台の地名は、下総国府が置かれたところから付けられたもので、この国府台と並んだ国分の台地には、聖武天皇の国分建立の詔(みことのり)によって国分僧寺と尼寺が建立されました。このようにして市川市の西部地域は、下総国における政治と文化の中心地になったのです。
平安時代の中ごろには、平将門の乱をはじめ、平忠常の乱などによって国守の力が衰退していきました。源頼朝は治承4年源氏の再興を願って下総国府に入り千葉常胤、平広常などの援助のもと兵を集めて鎌倉に向かいました.いわば、国府台は源氏再興の出発点となったところなのです。
戦国時代には太田道灌が国府台に城を築き、その後、この城は里見、北条両氏の古戦場として知られる所となりました。
江戸時代になると、国府台には総寧寺が関宿から移り、江戸川には小岩と向かい合って関所(市川)が設けられました。また、江戸の近郊として真間山弘法寺の紅葉や国府台古戦場を訪れる人が多く、詩歌、絵画、紀行文などが残されています。
明治5年学制の公布によって、国府台には、大学校設置が計画されましたが実現せず、陸軍教導団の移転と共に台上一帯は兵舎の立ち並ぶ軍隊の街となりました。昭和20年、太平洋戦争の終結によって、兵舎が校舎に変わり、練兵場がスポーツセンターとなって、今日のような学園地域に変貌したのです。
(『市川散歩NO.1 真間・国府台・国分』市川市教育委員会より)
里見公園(国府台3丁目9番地)
この公園は、下総台地の西端、江戸川に面した台地上にあり、このあたりは国府台と呼ばれ、ここに下総国府が置かれ、下総国の政治や文化の中心地でした。
その後、室町時代の天文7年(1538)10月、足利義明は里見義尭等を率いて国府台に陣をとり、北条氏綱軍と戦いました。しかし、北条軍が勝利をおさめ、義明は戦死し、房総軍は敗退しました。永禄7年(1564)正月、里見義尭の子義弘は再度国府台城で北条軍と対戦しましたが、この合戦も北条軍の大勝で終わり、以降この土地は北条氏の支配するところとなりました。
江戸時代に徳川家康が関東を治めると、国府台城は江戸を見渡すことのできる場所ということで廃城となりました。
明治から終戦まで、国府台は兵舎の立ち並ぶ軍隊の街として栄えました。
- 桜 ソメイヨシノ約240本、サトザクラ約14本、カワヅザクラ5本、オオシマザクラ1本
- バラ園 約93種、約600本
- 面積は約8.4ヘクタール
- JR市川駅北口から松戸駅(矢切経由)行きバス「国立病院」下車、徒歩5分
- 京成国府台駅下車徒歩15分
園内には、天文・永禄の二度に渡る合戦で戦死した里見軍の霊を慰めるために、文政12年(1829)に建てられた「里見諸将軍霊墓」などの3基をはじめ、「明戸(あけど)古墳石棺」、「羅漢の井」、北原白秋ゆかりの「紫烟草舎」などがあり、また永禄の合戦に陣鐘(じんしょう)」を掛けたという「鍵掛けの松」、その鐘が落ちた「鐘が渕」などの伝説が伝えられています。
国府台城跡
里見公園内の地形をよく見ると、江戸川に向かってコの字型に二重の土塁が築かれていたことが推定できます。さらにこの土塁の外側を空堀が囲っていたことも、古文書などから知ることができます。
里見公園内の地形をよく見ると、江戸川に向かってコの字型に二重の土塁が築かれていたことが推定できます。さらにこの土塁の外側を空堀が囲っていたことも、古文書などから知ることができます。
これが世にいう国府台城です。この城は文明11年(1479)太田道灌が築いたものと伝えられています。その後も、天文・永禄の合戦に里見軍はここに陣を布き北条軍と戦いましたが、何れも北条軍の大勝に終わり、以降この地は北条氏の支配するところになりました。
天正18年(1590)、徳川家康が関東を治めると、国府台は江戸俯瞰の地であるところから廃城となりました。
紫烟草舎
「からたちの花」「砂山」などの詩で親しまれている詩人北原白秋(明治18年~昭和17年)が大正5年の夏から約1年間、当時小岩にあったこの離れで、優れた作品の創作を続け、白秋自身で紫烟草舎と名付けました。
「からたちの花」「砂山」などの詩で親しまれている詩人北原白秋(明治18年~昭和17年)が大正5年の夏から約1年間、当時小岩にあったこの離れで、優れた作品の創作を続け、白秋自身で紫烟草舎と名付けました。
復元の地をここに求めたのは、小岩に移り住む前、白秋が真間の亀井院に住んでいたこと、小岩に移ってからも江戸川越しにこの台地を眺めたであろうこと、そして葛飾の野をこよなく愛していたことによります。
羅漢の井
公園の南斜面下にあり、国府台城や里見一族が布陣の際の飲用水として使用したと思われ、高台にあって水源が乏しいにもかかわらず一年中清水が沸いています。
公園の南斜面下にあり、国府台城や里見一族が布陣の際の飲用水として使用したと思われ、高台にあって水源が乏しいにもかかわらず一年中清水が沸いています。
一説には、弘法太師が巡錫の折に発見し、里人達に飲用水として勧めたと伝えられています。国府台は高台であるため飲用水得るためには深い井戸を掘らねばならず多額の費用がかかりました。この伝説もここの住民にとって、いかに水が貴重なものであったかを物語っています。
里見群亡の碑
永禄7年(1564)1月4日、里見義弘は8千の軍勢を率いて国府台に陣を構え、北条氏康軍約2万を迎え撃ちました。7日の戦いは里見側に有利でしたが、8日払暁、北条軍は寝込みを襲い一斉に攻撃したので里見軍は狼狽し、士気を失い敗退しました。この合戦で敗北した里見広次らをはじめとして討ち死にする者5千名と伝えられております。
永禄7年(1564)1月4日、里見義弘は8千の軍勢を率いて国府台に陣を構え、北条氏康軍約2万を迎え撃ちました。7日の戦いは里見側に有利でしたが、8日払暁、北条軍は寝込みを襲い一斉に攻撃したので里見軍は狼狽し、士気を失い敗退しました。この合戦で敗北した里見広次らをはじめとして討ち死にする者5千名と伝えられております。
その後、里見軍戦死者の亡霊を弔う者もなく、文正12年(1829)になって「里見諸士群亡塚」、「里見諸将群霊墓」、「里見広次公廟」が建てられました。
明戸古墳石棺(あけどこふんせっかん)
市川市の文化財に指定されているこの二墓の石棺は公園裏山・中央にあり、文明11年(1479)に太田道灌がここに城を築いた時に盛土が取り払われて露出したものと伝えられています。
市川市の文化財に指定されているこの二墓の石棺は公園裏山・中央にあり、文明11年(1479)に太田道灌がここに城を築いた時に盛土が取り払われて露出したものと伝えられています。
板のような緑泥片岩(りょくでいへんがん)製の組み合わせ式箱型石棺で蓋石は見られませんが、古墳時代後期(6世紀後半~7世紀初頭)この地方に勢力をふるっていた豪族の墓と推定されます。
この地方に箱型石棺があるのは極めて珍しいといわれています。
夜泣き石
里見群亡の碑に隣接してあります。永禄7年(1564)里見・北条の合戦で戦死した里見広次に12~13歳になる美しい姫がいましたが、父の霊を弔うため、はるばる遠い安房の国から国府台を訪ねてきました。姫は身も心も疲れ果て、そばにあった石にもたれ弱いかすかな声で父の名を呼びながら幾日か泣き続け、とうとう息がたえてしまいました。以来、この石から夜になると悲しい声が聞こえてきたという伝説を秘めた石です。
里見群亡の碑に隣接してあります。永禄7年(1564)里見・北条の合戦で戦死した里見広次に12~13歳になる美しい姫がいましたが、父の霊を弔うため、はるばる遠い安房の国から国府台を訪ねてきました。姫は身も心も疲れ果て、そばにあった石にもたれ弱いかすかな声で父の名を呼びながら幾日か泣き続け、とうとう息がたえてしまいました。以来、この石から夜になると悲しい声が聞こえてきたという伝説を秘めた石です。
北原白秋歌碑
野外彫刻「水の詩(みずのうた)」久保田俶通作
野外彫刻「水の詩(みずのうた)」久保田俶通作
(「里見公園パンフレット」水と緑の部 公園課・『市川散歩NO.1 真間・国府台・国分』市川市教育委員会より)
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市川関所跡(市川2丁目24番地、標識と説明板あり)
寛永12年(1635)三代将軍家光によって参勤交代の制度が確立すると、市川は房総に配置された諸大名の参勤の通路として、重要な役割をもちました。
当時、市川と小岩の間には渡しが設けられ、双方とも定船場(じょうせんば)として番所が置かれていましたが、元禄10年(1697)江戸から佐倉に至る街道のうち、八幡までを官道として道中奉行が直轄することになりました。市川の渡しに置かれた番所が、関所に昇格したのはこのころからかと思われます。
市川の関所は明治2年(1869)で廃止になりましたが、この間、特に「出女と入鉄砲」が厳しく取り締まられたことが、記録に残されています。
国府神社(市川4丁目4番地)
国府台の地名は伝説によると、日本武尊がこの地から武蔵国へ向かおうとしたとき、多くの河川が州をつくって流れているのを見て、軍勢を歩いて渡すことはできないものがと思案していると、コウノトリが飛来して浅瀬を教えてくれたため難なく武蔵国へ渡ることができました。そこで尊は褒美にこの台地をコウノトリに与えました。このことから「鴻之台(こうのだい)」の地名が起こったといいます。
国府神社はこの伝説を裏付けるように、祭神が日本武尊で御神体がコウノトリの嘴(くちばし)ということです。
下総総社跡(国府台1丁目6番地)
もと国府台のこの一帯は、東西130メートル、南北約80メートルにわたる大樹の鬱蒼とした森になっていました。この森は「六所の森」または「四角の森」と呼ばれ、その中に六所神社が鎮座していました。この六所神社は下総国の総社として祀られたものです。総社というのは本来国守が領内の諸社を巡拝して奉幣祭祀することを略し、国府またはその付近に合祀したことが、その起源であるといわれています。
なお下総の場合、この六所神社から南の弘法寺に至る間を「府中」と呼んでいました。下総国府の所在を知る上で重要な手がかりとなる神社跡です。
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国府台の辻切り
国府台から国分にかけた一帯には、毎年各部落ごとに「辻切り」の行事が行われいたのですが、現在市川市ではここと北国分の二ヵ所だけになってしまいました。
1月17日天満宮の境内に集まって、ワラで4体の大蛇を作り神前に並べ、御神酒を飲ませて魂を入れます。その後、大蛇を四隅の木に結び付け、外から侵入する悪霊などを防いだのです。
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法皇塚古墳
この古墳は直径58メートル、高さ5メートルという市川市最大の前方後円墳です。
昭和44年の発掘調査のとき後円部から横穴式石室を有する主体部が発見されそこから甲冑、太刀、鉄鏃、ガラス玉、馬具関係品、その他多数の副葬品が発見されました。
これらの副葬品を納めた古墳は、今までには下総南部の地域では認められなかった極めて貴重な存在で、築造年代は6世紀前半の頃と思われます。また、出土品は市川考古博物館に展示されています。
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安国山 総寧寺(そうねいじ)〔曹洞宗〕五輪塔(国府台3丁目10番地)
永徳3年(1383)近江国観音寺の城主佐々木氏頼の祈願で、通幻禅師を開山に近江国佐槻庄樫原郷(滋賀県坂田郡近江町)に創建したものを、天正3年(1575)北条氏正が下総国関宿に移しました。しかし、この地はしばしば水害を被ったので、時の住職智堂(ちどう)が将軍家綱に願い出て、寛文3年(1663)国府台に移転したものです。
寺領は128石5斗余りでしたが、幕府は関東僧録寺(そうろくじ)に任じ、歴代住職に対しては十万石大名の格式を以って処遇したといわれ、江戸小石川には屋敷が与えられていました。
寺の入口にある「下馬(げば)」の碑はその格式の高さを示したものといわれています。
境内には高さ4.3メートルと3.3メートルの2基の五輪塔がありますが、これは関宿城主小笠原政信夫妻の供養塔【市指定文化財】で、その大きさといい、形態といい実に見事な石造物です。
また、永禄合戦の時の悲しい物語りを秘めた「夜泣き石」が本堂の前に置かれていました。現在は、里見公園内に移されています。
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じゅんさい池緑地(中国分4丁目27番地)
国府台と国分の台地の間に深く入り込んだ谷津の奥を国分沼といい、じゅんさいが生えていたところから「じゅんさい池」と呼ばれました。
この地の袂にある「姫宮」は永禄の合戦で破れた里見軍の姫君が身を投じ、それを祀ったものと伝えています。
緑地内には「登龍庵」という茶室があります。
- 南北に伸びた細長い池の中に、ジュンサイを始めカキツバタ、ショウブ、オニバスなどが咲き乱れ、2月から3月始めには梅の名所となる。
- 面積は約8.5ヘクタール
- 梅の名所 梅の木 約140本
- JR市川駅北口から京成国府台駅経由国分操車行きミニバス「じゅん菜池」下車
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国府台寺町
国府台5丁目の一角には、南から
根本寺(こんぽんじ)〔昭和46年移転〕。
西棲院(せいしょういん)〔昭和3年移転〕。
即随寺(そくずいじ)〔昭和3年移転〕。
源光寺(げんこうじ)〔回向院別院、昭和13年移転〕。
泉養寺(せんようじ)〔昭和22年創建〕
西棲院(せいしょういん)〔昭和3年移転〕。
即随寺(そくずいじ)〔昭和3年移転〕。
源光寺(げんこうじ)〔回向院別院、昭和13年移転〕。
泉養寺(せんようじ)〔昭和22年創建〕
という6つの寺院が集まった寺町を形成しています。
これらの寺院は大正12年の関東大震災のとき東京で焼失したため、移転してきたものもあり、特に泉養寺は江戸深川八郎右衛門が、秀順(しゅうじゅん)法印を開山に創建したもので、移転の際深川一族の墓碑と、寛保3(1743)に俳人千梅(せんばい)が建てた「芭蕉塚」が移されています。
文化の街かど回遊マップ 国分・国府台地区編
左の画像をクリックすると印刷用PDFデータを見られます。
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文学の道 近代文学のみち
市川市教育委員会制作のパンフレット。
画像をクリックすると大きな画像でご覧いただけます。
(大きな画像はウィンドウにあわせて小さく表示される場合があります。画像の右下にカーソルを合わせると、拡大のアイコンがでますので、お試しください。)
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雑木林の散歩道 歩いて楽しい国府台~堀之内界隈発見マップ
「市川市内の町を歩いて、見て、知ってもらう参考に」と職員が手作りで地図を作成しました。地域ごとの特色を紹介していて、11種類(平成13年8月1日現在)の「散歩道マップ」があります。文化振興課で1色刷りの「散歩道マップ」を配布しています。
左の画像をクリックすると大きな画像が見られます。
印刷用にはいちかわ雑木林の散歩道 表面(PDF)をどうぞ。
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印刷用にはいちかわ雑木林の散歩道 裏面(PDF)をどうぞ。
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国府台・矢切回遊マップ
平成15年に行われた、国府台・矢切街回遊展の時のマップです。
矢切神社
社殿の右手奥に菅原道真を祀った天満宮の小社があり、その手前には忠魂碑が建っている。
野菊の墓文学碑
矢切を舞台にした伊藤左千夫の小説「野菊の墓」を記念して建てられたもの。この小説は夏目漱石に絶賛された。
矢切の渡し
始まりは江戸時代初期とも。農民が「入り鉄砲・出女」を監視した関所を通らずに、対岸の耕作地に向かうために許された渡し。
その他の情報
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