文化財(市指定)狩野浄天夫妻墓石・供養塔
狩野浄天夫妻墓石・供養塔(かのうじょうてんふさいぼせき くようとう)
狩野浄天は本名を狩野新右衛門重光といい、もと伊豆狩野庄の武士でしたが、天正18年(1590)、行徳欠真間(かけまま)に来住し、荒地を開拓して田畑の開墾に努め、また塩田の開発にあたりました。
なかでも田中重兵衛(内匠)と力を合わせ、元和6年(1620)に完成させた灌漑用水路開鑿の功績は大きなものです。水路は鎌ケ谷市道野辺にある囃子水を水源とした谷地川(大柏川)から発し、八幡・行徳・南行徳を経て浦安へ流れる全長12キロメートルに及ぶものでした。これにより、行徳地域の水田からは一万石(約1,500トン)の米が産出されたといいます。
水路は農事功労者である2人の号をとって「浄天堀」または「内匠堀」と呼ばれ、長い間用水を供給していましたが、昭和41年の区画整理事業などによって田畑がなくなるとともにその使命を終え、今では暗渠となってしまいました。
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源心寺にある浄天夫妻の墓石は高さ1.6メートルの舟形光背型2基で、銘文は
- 寛永六己巳年 施主
- 源正院心誉浄天禅定門
- 三月斗五日 敬白
- 寛永十七庚辰夭 施主
- 心行院寳妙泉禅定尼
- 十一月八日 敬白
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供養塔も同じ墓地内のやや離れた場所にあり、高さ3メートルの五輪塔です。正面には夫妻の戒名を彫り、背面には、
- 干時 寛文六年
- 良宅院殿専誉受心 大姉 丙午 九月廿一日
田中重兵衛(たなかじゅうべえ)
当代島(現・浦安市)の開発者です。元和5年(1619)当代島に善福寺を建立しました。慶安4年(1651)に亡くなり、墓は善福寺にあります。
附 狩野浄天骨壺(かのうじょうてんこつつぼ)
器高40.8センチメートル、口径12.3センチメートル、胴部最大径35.3センチメートルという骨壺としては大きな四耳壺(しじこ)です。昭和62年2月24日、地盤沈下のため源心寺にある狩野浄天夫妻の墓所を改修した際に発見されました。壺の中には寛永6年(1629)に死亡した浄天の火葬骨がありました。壺は市立歴史博物館で保管しています。
アクセス
- 所在地
- 香取1-16-26 源心寺
- 交通
- JR総武線本八幡駅からバス「源心寺」下車すぐ
見学は自由
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