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幸田露伴は、江戸文学や漢籍への造詣が深く、『五重塔』『評釈芭蕉七部集』などの著作がある。1937(昭和12)年第1回文化勲章受章。
東京文京区小石川の蝸牛庵を東京大空襲によって失い、信州や伊東に疎開した後、下総中山近辺に住んでいた門下生の土橋利彦(塩谷賛)の世話で、娘の文、孫の玉子とともに菅野の白幡天神社の北西に位置する4丁目4番地に移り住んだのは、1946(昭和21)年1月28日のことであった。(永井荷風が市川に越してきた12日後のことである)
市川に移り住んだ翌年、1947(昭和22)年3月には、大正末から手掛けてきた「芭蕉七部集評釈」をようやく完成させ、同年7月30日、80歳の生涯を閉じた。
市川に関連する文学者では、伊藤左千夫も同じ日に亡くなっている。
荷風が、早くから露伴を敬愛していたことは知られており、戦後、同じ市川に住む作家同士ということで対談も企画されたが、実現しなかった。1947(昭和22)年8月の露伴の葬儀の折りに、荷風は門外にたたずみ、弔意を表したエピソードは有名である。
著作権法51条2項にあるように、著作物の権利は、著作者の死後50年を経過するまでの間を著作権の保護期間といいます。50年を過ぎると、著作権が消滅することとなり、その創作物は、パブリックドメイン(著作権が発生していない状態)に帰すこととなります。
幸田露伴の場合は、1947(昭和22)年7月30日に亡くなっていますので、その著作権は1998(平成10)年1月1日でなくなりました。2007年の没後60年も過ぎ、露伴の作品はいまや、インターネット上で読むことができたり、作品の複製や再配布等が自由にできるようになっています。