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郭沫若

ページID:0007776 更新日:2025年10月27日 印刷ページ表示

市川の文化人 郭沫若プロフィール

 中国楽山出身の郭沫若(かくまつじゃく)氏は、文学者・歴史学者・政治家として日本と中国の架け橋となる活躍をしました。

 氏は、昭和3年から10年間を須和田で暮らし、市川市と楽山市の友好都市締結のきっかけにもなりました。

 平成16年9月、真間に旧宅を移築・復元し、「郭沫若記念館」として公開しています。

郭沫若のレリーフ

右のレリーフは、須和田公園内の詩碑「別須和田」より

郭沫若 年譜

明治25年(1892)

  • 中国四川省楽山市に生まれる。

大正3年(1914)

  • 日本に留学。

大正6年(1917)

  • 「佐藤をとみ」と結婚。

大正7年(1918)

  • 九州帝大医学部に入学。この頃より詩作を始める。

昭和3年(1928)

  • 夫人の郷里である日本に亡命。
  • 上海当時の知人村松梢風の紹介で市川市須和田に居を構える。

昭和12年(1937)

  • 盧溝橋事件の勃発を見て祖国の現状を憂い、ひとり家族と離れ中国に帰国。
  • 新中国誕生後は、政務院副総理など中枢で活躍する。

昭和30年(1955)

  • 中国学術文化視察団団長として来日。
  • 亡命生活を過ごした市川市須和田の旧宅を訪れ、旧知と交歓。
  • この時の感慨を「別須和田」という長歌に詠んだ。

昭和42年(1967)

  • 「別須和田」の碑が須和田公園内に建立される。

昭和53年(1978)

  • 逝去。享年85歳。

郭沫若と市川(中山文化村自主管理事業運営委員会 浅賀徹也)

 郭沫若に先立つこと9年前の1904年、魯迅は医学を学ぶため仙台医学専門学校(現・東北大学医学部)に留学した。しかしそこで見せられた祖国を撮影した実写幻灯に衝撃を受け、医学を断念し、文学・社会活動の道を進むことになった。

 郭沫若も九州帝国大学医学部(現・九州大学医学部)を卒業したが医学の道は進まず、文学・歴史・政治活動家として活躍することになった。魯迅と郭沫若という二人にはこのように共通する経歴がある。

 郭沫若は大学卒業後帰国し、浪漫主義的傾向をもつ文学者として活動するがやがて毛沢東、周恩来と出会い、新しい中国建設のための政治活動に挺身することになる。その結果国民党政権に追われ日本に亡命し、1928年2月市川市須和田に居を構えることになった。日本政府は日本の政体に相容れない亡命者として郭沫若を遇し自由な活動を許さなかった。籠居を余儀なくされたなかで郭沫若は中国古代社会研究に没頭し、金石文・甲骨文の実証研究を進め、ここから『中国古代社会研究』、『甲骨文字研究』、『両周金文辞大系考釈』などの研究として結実した。魯迅も若い時、金石拓本の収集をしていたというからここにも一脈通ずるところがある。

 蘆溝橋事件を機に再び中国に帰りその後日本の土を踏んだのは1955年2月、中国学術文化視察団の団長として来日の時で、須和田の旧居を訪れ、長詩『須和田に別れる』で感慨をうたった。自筆を刻した詩碑が1967年に須和田公園に建てられた。

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