更新日: 2023年3月8日
水木洋子 プロフィール(略年譜)
生い立ち・家族
年代 | 年齢 | 内容 | 参考資料 |
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1910 (明治43) |
8月25日、東京市京橋区本材木町3丁目
5番地(現中央区京橋1丁目)生まれ 本名高木富子 父高木艶五郎(明治16年生)、母田中ゑい(明治26年生)は愛知県犬山で結婚し上京(明治42年8月) |
大田区戸籍謄本 | |
1911 (明治44) |
1 | 京橋区築地1丁目18番地(現中央区築地2丁目4-10)に転居 | |
1913 (大正2) |
3 | 5月15日、妹文子誕生 | 大田区戸籍謄本 |
1915 (大正4) |
5 | 柳北幼稚園(浅草区御蔵前片町23番地=現蔵前1丁目6)へ通う | |
1916 (大正5) |
6 | 神田区佐久間町4丁目14番地に転居 |
学校時代
年代 | 年齢 | 内容 | 参考資料 |
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1917 (大正6) |
7 | 4月、東京市立佐久間尋常小学校に入学 | 水木作文帳 |
1923 (大正12) |
13 | 3月、佐久間尋常小学校を卒業 4月東京府立第一高等女学校(現白鴎高校)に入学 9月1日関東大震災、自宅は災害を免れる |
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1926 (大正15) |
16 | 第一高女4年生、「生立ちの記」を書く | 生立ちの記 |
1928 (昭和3) |
18 |
3月、府立第一高等女学校卒業 4月日本女子大学校国文学部(現日本女子大学文学部日本文学科)に入学 |
日本女子大学資料 |
1931 (昭和6) |
21 |
日本女子大学校卒業を目前に文化学院文学部専攻科演劇科2回生として転校 8月、築地小劇場にあったプロレタリア演劇研究所を受験、合格して9月から夜は研究所に通う |
文化学院資料室資料 |
1932 (昭和7) |
22 |
左翼劇場正月公演「赤いメガホン」(18景)の中の「子どもをめぐる」に出演 3月、文化学院文学部演劇科卒業 その後左翼劇場「赤い火花の人々」「乞食芝居」「パン」等に出演 |
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1933 (昭和8) |
23 | 6月、飛行館ホールでの劇団プレイボーイズ旗揚げ公演のため細田民樹の小説「生活線ABC」の脚色を初めて手がける |
劇作家へのプロローグ
年代 | 年齢 | 内容 | 参考資料 |
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1934 (昭和9) |
24 | 1月9日、父艶五郎死去。家族を支えるために筆一本で生きる決意を固め、脚本の執筆に打ち込む。大森区南千束町133番地(現大田区南千束1丁目133番地)に転居 | 大田区戸籍謄本 |
1935 (昭和10) |
25 | 菊池寛主宰の脚本研究会にD「クレオパトラ美容室」で応募、選ばれる。 5月、八住利雄演出で創作座が公演 |
クレオパトラ美容室 |
1936 (昭和11) |
26 | 脚本研究会で発表したD「白き一頁」が『菊池寛主宰脚本研究会戯曲集1)』(10月発行)に入る この頃八住利雄にロシア語を習う |
菊池寛主宰脚本研究会戯曲集1) |
1937 (昭和12) |
27 | 1月、D「白き一頁」が新派によって上演。 10月、JOAK第1が始めた家庭コントの中でR「花束が出来るまで」放送 |
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1938 (昭和13) |
28 | 3月、D「女の設計」(関西新派) 7月、D「町医者」(文化座・築地小劇場) 12月、東宝の助監督・谷口千吉(明治45年生)と乃木神社で挙式 |
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1939 (昭和14) |
29 | 4月、R「嵐」(島崎藤村原作)がJOAK第2で放送 6月、ドイツ映画を翻案したD「早春」が新築地劇団により本郷座で上演 10月21日、4月4日入夫婚入籍していた谷口氏と協議離婚 |
早春 |
1940 (昭和15) |
30 | 2月、D「病院船」(大嶽康子作 新派 明治座) 2月21日、R「三人姉妹」JOAKから放送 商業演劇に置き去りにされている大衆に直結している放送の仕事・ラジオドラマに新しい分野として挑み始める |
三人姉妹 |
1941 (昭和16) |
31 | 4月、日本放送協会放送劇部門嘱託となる 12月8日、太平洋戦争開戦の日はラジオ小説「母」の本読み このあたりから終戦後まで舞台に関わった記録なし。求められるままラジオの脚本を書き、仕事の中心はラジオに移っていった |
『NHK』1960年9月15日号 |
戦禍のなかで・ラジオドラマ
年代 | 年齢 | 内容 | 参考資料 |
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1942 (昭和17) |
32 | 5月、R「こども風土記」(柳田國男原作) 9月14日、陸軍省嘱託として南方への2ヶ月間出張の辞令を報道部から受ける。太平洋戦争1周年にあたり南方へ派遣される女流作家9人の1人。 10月28日、林芙美子、窪川稲子、小山いと子らと病院船にカモフラージュした輸送船で呉からシンガポールへ出発。 11月、R「林道」。この作品でラジオ賞受賞を輸送船の中で知る 11月16日、シンガポール着 12月6日、シンガポールを出て船で12日ラングーン着。その後急遽中国雲南省へ向かう。年末怒江着 |
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1943 (昭和18) |
33 | 1月、メイミの病院で正月を迎える。 1月1日『ビルマ新聞』創刊号に「キン・ママ夫人」掲載 2月25日、ビルマにおける任務終了。軍用機でバンコックへ 3月13日、シンガポールへ 3月26日、空路帰国(九州任田原基地) 5ヶ月の旅をおえた後、休むひまなく現地報告と講演旅行に忙殺 |
『ビルマ新聞』創刊号 |
1944 (昭和19) |
34 | 1月15日、妹文子死去 4月1日、日本文学報国会劇文学部会の幹事になる 秋から年末にかけて演劇指導のため蒙古へ派遣される 9月、B『ビルマ従軍記・アラカンの菊』 |
『ビルマ従軍記・アラカンの菊』 |
1945 (昭和20) |
35 |
4月15~16日、大森・蒲田など城南地区の空襲で、南千束の家が被災。 両親の故郷であり、母の姉かまの嫁ぎ先、愛知県葉栗郡草井村(現江南市)の永井栄一宅に疎開。母屋の西側の廊下つづきで8畳2間と便所つきの棟で過ごす |
永井鐘一氏聞き取り |
1946 (昭和21) |
36 | 11月、マッカーサー元帥の近影のある『コドモグラフ』第1号に「おたより」(木曽川べりの暮らしのエッセイ)を載せる | 『コドモグラフ』第1号 |
市川での生活が始まる・シナリオ作家としての出発
年代 | 年齢 | 内容 | 参考資料 |
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1947 (昭和22) |
37 |
文学座座談会・杉村春子達に聞くに出席(『中部演劇』1947年44月号に掲載) 6月頃、父親の知り合いで同郷の中村氏を頼り、疎開先の愛知から母とともに市川市八幡に転入(市川市八幡町1880佐藤方) |
市川市住民票 |
1948 (昭和23) |
38 |
1月、R「うづ潮」(林芙美子原作) NHKなどラジオの仕事をする学生時代からロシア語を師事していた八住利雄から、戦後映画のシナリオを書くことをすすめられ、、『映画春秋』6月号に「女の一生」発表 市川市八幡758(現・八幡5-17-3)に移る |
『八住利雄人とシナリオ』 |
1949 (昭和24) |
39 | 1月、M「女の一生」封切 1月、D「風光る」(新作座 読売ホール) B『母の幻想曲』 |
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1950 (昭和25) |
40 | 3月、M「また逢う日まで」封切 9月、R「猫」NHK |
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1951 (昭和26) |
41 | 7月、M「せきれいの曲」封切 9月、R「安宅家の人々」(吉屋信子原作)(23回)JOQR |
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1952 (昭和27) |
42 | 5月、M「安宅家の人々」封切 6月、M「おかあさん」封切 11月、M「丘は花ざかり」封切 B『ひめゆりの塔・おかあさん・また逢う日まで-水木洋子シナリオ集』 |
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1953 (昭和28) |
43 | 1月、M「ひめゆりの塔」、M「夫婦」封切 第1回菊池寛賞受賞 4月、借家(55.37平方メートル)の所有権を登記 5月、M「愛情について」封切 8月、M「あにいもうと」封切 11月、M「にごりえ」封切 B『ママの日記』 |
登記簿 |
1954 (昭和29) |
44 | 7月、R「あなたと共に」(8回)JOLF 8月、R「舵子」(3回)NHK 11月、M「山の音」封切 12月、R「おばンちゃん」(15回)NHK |
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1955 (昭和30) |
45 | 1月、M「浮雲」、M「女の一生」(松竹)封切 2月、M「ここに泉あり」封切 B『あなたと共に』 |
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1956 (昭和31) |
46 | 1月、M「驟雨」封切 4月、M「夜間中学」封切 11月、R「雪っこ」NHK B『日本シナリオ文学全集・水木洋子集』 |
輝かしい受賞の数々・テレビドラマへ
年代 | 年齢 | 内容 | 参考資料 |
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1957 (昭和32) |
47 | 4月、T「早春」NTV 5月、D「子を貸し屋」(宇野浩二原作 新派 新橋演舞場) 5月、M「あらくれ」封切 10月、M「純愛物語」封切 |
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1958 (昭和33) |
48 | 2月、M「怒りの孤島」封切 2月15日、第4回北海道新聞映画賞最優秀脚本賞(「純愛物語」)受賞 3月、D「おとうと」(幸田文原作 新派 新橋演舞場) 6月、T「おとうと」(幸田文原作)(3回)NTV 10月、M「裸の大将」封切 |
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1959 (昭和34) |
49 | 2月、水木邸の敷地の東半分(八幡5丁目760番の2)を購入 3月、M「キクとイサム」封切 11月、T「はげやまちゃんちき」CBC 11月、R「北限の海女」NHK。同作品で昭和34年度芸術祭賞受賞 |
登記簿 |
1960 (昭和35) |
50 | 社団法人日本シナリオ作家協会理事長(~1961) 1月14日、NHK1959年度日本映画特別賞(シナリオ)受賞 1月30日、毎日新聞社第14回映画コンクール脚本賞受賞 2月5日、ブルーリボン脚本賞受賞 2月11日、第6回北海道新聞映画賞最優秀脚本賞(「キクとイサム」)受賞 3月22日、日本放送協会・放送文化賞受賞 4月7日、文部大臣賞受賞 6月「もず」(20回)NHK 8月~11月NHKラジオ「朝の訪問」)の聴き手に(月曜日担当) 11月、M「おとうと」封切 |
『水木洋子・人とシナリオ』 |
1961 (昭和36) |
51 | 1月、M「婚期」封切 2月、M「あれが港の灯だ」封切 3月、M「もず」封切 |
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1962 (昭和37) |
52 | 1月、M「にっぽんのお婆ぁちゃん」封切 2月5日、昭和36年度キネマ旬報賞脚本賞受賞 4月、M「箱根山」(獅子文六原作 新派 明治座) 6月、D「とりかえばや物語」(西川鯉三郎創作舞踊公演 芸術座) 11月、T「シ嵐(なぎ)」NHK |
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1963 (昭和38) |
53 |
5月、T「砂の上」NHK 6月、『主婦と生活』身上相談室の回答者を担当(~1965) 7月、敷地の西半分(八幡5丁目757番の1、2)を購入 |
登記簿 |
1964 (昭和39) |
54 | 9月、M「甘い汗」封切 12月、M「怪談」封切 |
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1965 (昭和40) |
55 |
1月、T「豆菊はんと雛菊はん」NHK。同作品で昭和40年度NHKテレビドラマ脚本賞受賞 1月26日、昭和39年度キネマ旬報脚本賞受賞(「甘い汗」「怪談」) 5月、D「春の嵐」(新派 新橋演舞場) 5月10日、「この人この道 水木洋子」放送NHK |
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1966 (昭和41) |
56 | 3月、M「氷点」封切 4月13~16日、「第14回全国婦人会議 働く婦人の問題」の座長に 6月、T「幼い二人」NHK |
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1967 (昭和42) |
57 | 3月、M「悪霊」(『東京映画』3月号)を発表するが映画化されず | |
1968 (昭和43) |
58 | 1月、T「竜馬がゆく」(司馬遼太郎原作)(52回)NHK | |
1969 (昭和44) |
59 | 10月、T「わたしはカモちゃん」(26回)CX 10月、T「甘柿しぶ柿つるし柿」(15回)TBS |
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1970 (昭和45) |
60 | 5月24日、T「五月の肌着」CBC 6月、T「星の夜のテラス」NHK 「南国お洒落旅行」(未映画化)を書く |
新派・文学座・オペラに
年代 | 年齢 | 内容 | 参考資料 |
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1971 (昭和46) |
61 | 1月、T「みかんきんかん夏みかん」(26回)NHK 5月、D「にごりえ」(樋口一葉原作 文学座 中日劇場) 10月、T「女人平家」(吉屋信子原作)(20回)ABC 10月28日、昭和46年度日本民間放送連盟賞、番組部門テレビ娯楽番組で「五月の肌着」優秀賞受賞 |
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1972 (昭和47) |
62 | 3月、T「火色」(5回)NHK 8月、T「らっこの金さん」NHK |
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1973 (昭和48) |
63 | 6月、D「おさい権三」(近松門左衛門原作 文学座 名古屋市民会館) 10月、T「出会い」NHK 11月、T「つらつら椿」(20回)NHK |
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1974 (昭和49) |
64 | 9月、T「月夜の雨傘」NHK 11月、T「灯の橋」CBC |
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1975 (昭和50) |
65 |
2月4日、昭和49年度芸術祭テレビ部門(ドラマの部)芸術祭大賞受賞 (「灯の橋」) 10月、Dオペラ「ちゃんちき」(作曲・團伊玖磨 東京文化会館)初演 |
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1976 (昭和51) |
66 | 10月、M「妖婆」封切 10月、M「あにいもうと」(リメイク)封切 12月、M「おとうと」(リメイク)封切 |
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1978 (昭和53) |
68 | 1月、T「青いくちづけ」(68回)MBS 11月、T「こぎとゆかり」CBC B『水木洋子シナリオ集』 |
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1979 (昭和54) |
69 | 1月、T「扇野」(山本周五郎原作)ANB 8月~10月、D「もず」(文学座 全国巡演) 11月、T「女が職場を去る日」(沖藤典子原作)CX |
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1980 (昭和55) |
70 | 10月、T「愛が裁かれるとき」(澤地久枝原作)(4回)NHK | |
1981 (昭和56) |
71 |
11月3日、紫綬褒章受章 11月、T「はまなすの花が咲いたら」(24回)TBS |
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1982 (昭和57) |
72 | 6月、M「ひめゆりの塔」(リメイク)封切 |
晩年
年代 | 年齢 | 内容 | 参考資料 |
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1983 (昭和58) |
73 | 1月11日、母ゑい死去 以降、執筆活動から遠のく | 大田区戸籍謄本 |
1984 (昭和59) |
74 | 2月、D「近松女敵討」(文学座 サンシャイン劇場) | |
1985 (昭和60) |
75 | 5月30日、日本シナリオ作家協会のシナリオ功労賞受賞 | |
1987 (昭和62) |
77 | 4月29日、勲四等宝冠章受章 | |
1990 (平成2) |
80 | 3月28日、今井正と新宿で対談 | 『今井正全仕事』 |
1991 (平成3) |
81 |
6月6日、八幡シネマ2の映画(黒澤明監督『八月の狂詩曲』)の半券がツーピースのポケットに遺される 1991年12月と1992年1月のカレンダーが自宅に遺されたままとなる |
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1993 (平成5) |
83 | 自宅を離れ、療養生活に入る | |
1995 (平成7) |
85 | 10月、シナリオ作家協会よりB『水木洋子 人とシナリオ』 | 『水木洋子 人とシナリオ』 |
1996 (平成8) |
86 |
2月、後見人専任 4月、後見人より市にシナリオ・書籍、土地・家屋の寄贈の申し出あり |
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1997 (平成9) |
87 | 12月19日、土地・家屋、シナリオ原稿・書籍、著作権などを将来、市に寄贈する「死因贈与契約」を市と締結 | 死因贈与契約書 |
2000 (平成12) |
90 | 8月、市川市「ひめゆりの塔」上映、資料整理のサポーターを募る 12月、Dオペラ「ちゃんちき」(神奈川県民ホール) |
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2001 (平成13) |
91 | 10月、改装なった水木邸に30分ほど帰宅 | |
2003 (平成15) |
92 | 4月8日、老衰のため市内の病院で逝去(享年92歳) 海禅寺(台東区松が谷3丁目)に埋葬 文雅院心量妙智大姉 自宅や原稿などが市川市に寄贈される |
逝去後
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市川市文学ミュージアム
(市川市 文化国際部 文化施設課)
〒272-0015
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