葛飾八幡宮と文化財

葛飾八幡宮周辺地図

寛平(かんぴょう)年間(889~898年)宇多天皇の勅願により、京都石清水八幡宮から祭神の分霊を迎えてお祀りした神社といわれています。

古くから武神として知られ、源頼朝、太田道灌、徳川家康など、その時々の力ある武将から厚く信仰されてきました。

千本公孫樹、梵鐘、随神門などの貴重な文化財があるほか、昔から行われている農具市等の年中行事や市民イベントの会場としてもにぎわいます。

指定 名称 種類 員数 指定年月日
千本公孫樹(いちょう) 天然記念物 1樹 昭和6年2月20日
梵鐘 美術工芸品 1口 昭和34年4月24日
随神門 建造物 1棟 昭和35年10月7日

国・・・国指定文化財 県・・・県指定有形文化財 市・・・市指定有形文化財

八幡の藪知らず

現代の藪知らず
現代
明治の頃の藪知らず
明治の頃

国道14号線をはさんだ市役所の向かいに、鳥居と祠(ほこら)に護られた小さな竹藪があります。これが有名な「八幡不知森(やわたしらずのもり)」で、広辞苑にも「八幡の藪知らず」の項目があり、「ここに入れば再び出ることができないとか、祟りがあるといわれる。転じて、出口のわからないこと、迷うことなどにたとえる」とあり、江戸川乱歩の「孤島の鬼」や夏目漱石の「行人」等、さまざまな小説にも、迷い込んで出られなくなることの喩えとして使われています。

 ※詳しくは図書館の「市川の文学データベース」で「藪知らず」で検索してみてください。

 

この喩えの元になった、さまざまな伝承が残されています。

  • 日本武尊(やまとたけるのみこと)が陣所とした跡だから入ってはいけない。
  • 葛飾八幡宮を最初に勧請(神仏の分霊を他の場所に移して祭る)した神聖な土地だから入ってはいけない。
  • 平将門(たいらのまさかど)が朝廷軍と戦ったとき、将門軍の鬼門に当たった場所が不知森だった。
  • 平将門平定の折、平貞盛(たいらのさだもり)が八門遁甲(はちもんとんこう、占星術によって吉凶を占い、周囲の人目をくらまし身を隠す妖術)の陣を敷いたが、平定後もここにだけ将門軍の死門(あの世への関門)の一角を残したので、この地に入ると必ず祟りがある。

※伝説や言い伝えについては、「市川のむかし話」(市川民話の会 編集・発行)を参照。また図書館の「市川のむかし話データベース」で「やぶしらず」で検索してみてください。

特に、最後の伝承について、この話を聞いた徳川光圀(水戸黄門)が馬鹿げた話だと藪に入ったところ、白髪の老人が現れ「戒めを破って入るとは何事か、汝は貴人であるから罪は許すが、以後戒めを破ってはならぬ」と告げたといい、この話は三枚綴りの錦絵になって全国に広まりました。

江戸名所図会より

史実を見ると、この地が行徳の入会地(いりあいち、村や部落などの村落共同体で総有したことで、入会権が設定されている山林原野または漁場など)であり、八幡の住民はみだりに入ることが許されなかったので、「八幡知らず」と言われたのが藪知らずになったのではないかと言われています。

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