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荷風をめぐる人々 その3

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更新日: 2019年1月18日

荷風を訪れた著名人は語る

森鴎外(1862〜1992)、森於莵(1890〜1967)

森 鴎外 もり・おうがい  小説家  1862(文久2)年〜1922(大正11)年
森 於莵 もり・おと  解剖学者  1890(明治23)年〜1967(昭和42)年

 
 鴎外は、『伊沢蘭軒』『渋江抽斎』など、考証的歴史小説を得意とし、荷風が早くから師と仰いだ作家。
鴎外と荷風の関係については、吉野俊彦『鴎外・啄木・荷風』(ネスコ 1994)などに詳しく、1948(昭和23)年の『鴎外全集』再刊(岩波書店)や『鴎外選集』(東京堂)の刊行にも携わり、1948(昭和23)年10月21日、鴎外の長男於莵が、その刊行のことで菅野の荷風宅を訪れている。
  
 於莵は、何度か荷風宅を訪れており、1950(昭和25)年9月4日に訪れたときの様子を、「老年の幸福と永井荷風」(『話の泉』昭和37)の中で、 “私が鴎外の息子だという理由からで、あの京成電車沿線のお宅に私はお出入り御免であったのである。あらかじめはがきを差上げておいて定刻に参上すると、ひとりずまいのお宅の入口の引戸を一センチほどあけて待っておられる。” (秋庭太郎『新考永井荷風』に引用)と語っている。
 
 荷風は、1954(昭和29)年に鴎外の33回忌のために建立された詩碑「沙羅の木」の揮毫を引き受け、さらに1956(昭和31)年には、文京区に計画された鴎外記念館建設のための寄付金を払い込んでいる。その度に、於莵は市川を訪れている。
 荷風の鴎外に対する畏敬の念は、亡くなるまで変わることがなく、荷風の死の床には、鴎外『渋江抽斎』が開かれたままになっていた。
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谷崎潤一郎(1886〜1965)

谷崎 潤一郎 たにざき・じゅんいちろう 小説家 1886(明治19)年〜1965(昭和40)年
 
 1911(明治44)年、荷風の「谷崎潤一郎氏の作品」(『三田文学』)で絶賛を受け、文壇に登場。耽美的な作品を多く手がけた。1916(大正5)年には、江戸川べりに草庵を結ぶ北原白秋を訪ねて、吉井勇、長田秀雄らと市川を訪れている。
 1941(昭和16)年に谷崎から贈られた印は、偏奇館炎上で失われたが、のちに養子になる永井永光氏により掘り出され、遺品として八幡に遺されている。
 1945(昭和20)年8月13日、岡山市に疎開していた荷風は、岡山から程近い勝山町に疎開する谷崎に招かれ、楽しい一時を過ごし、終戦を迎えた。
 1947(昭和22)年11月11日、真間の料亭「掬水」に、谷崎と辰野隆(たつの・ゆたか フランス文学者)が集まり、鼎談が催された。この記録は、1948(昭和23)年1月の『中央公論』に「好日鼎談」と題されて発表された。その前日、谷崎は小西宅を訪問したが、荷風は船橋の海神にある相磯邸へ赴いていたため不在であった。谷崎はそのときの様子を鼎談の中で、 “昨日お宅に伺いましたが、わりにいゝところですね。広いですね。奥の方に二階がありますな。” と語っている。
 『断腸亭日乗』にはその後、1958(昭和33)年6月22日に来訪した記述が見られる。
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久保田万太郎(1889〜1963)

久保田万太郎 くぼた・まんたろう 小説家・劇作家 1889(明治22)年〜1963(昭和38)年
 
 慶応義塾大学卒。在学中『三田文学』に小説「朝顔」、戯曲「遊戯」を発表し世に認められる。1937(昭和12年)文学座を創立、演出なども手がける。
  
 『断腸亭日乗』昭和22年7月4日の条には、 “真間の牛肉屋掬水に案内せられて馳走になる。門の招牌は久保万氏の筆なり” とある。
 秋庭太郎『考證永井荷風』によれば、荷風の文化勲章受章を強く推薦したのは、久保田であった。
 『断腸亭日乗』には、久保田が荷風宅を訪れた記述は、昭和29年1月3日のみであるが、久保田は、荷風作品を多く脚色しており、その打ち合わせに、東京ではしばしば会談の場を設けている。荷風は、久保田の手になる「あじさゐ」(昭和27年5月3日)や「葛飾土産」(昭和28年9月9日)などを観劇している。また、荷風の初めての映画「渡り鳥いつ帰る」(昭和30・東宝)は、荷風の戦後の小品を久保田が構成し、久松静児の監督、八住利雄の脚本で上映された。『断腸亭日乗』には、6月3日に試写を見たとの記述がある。
 荷風の葬儀では、相磯とともに葬儀副委員長をつとめている。
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堀口大學(1892〜1981)

堀口 大學 ほりぐち・だいがく  詩人  1892(明治25)年〜1981(昭和56)年
 
 1910(明治43)年、慶応義塾大学に入学し、『三田文学』に詩歌を発表。三田で荷風と接する機会を得る。その後、海外に滞在した経験もあり、フランス近代詩の紹介などに功績がある。荷風は、堀口の『昨日の花』(大正7)、『月光とピエロ』(大正7)、『青春の焔』(大正12)の三訳詞集に序文を寄せている。
 『断腸亭日乗』には、昭和24年3月26日、昭和24年9月10日、昭和25年4月16日、昭和26年5月13日、昭和27年12月27日、昭和31年12月27日と、堀口来訪の記述が見られる。1956(昭和31)年のときは、荷風が不在で、 “葡萄酒恵贈” と記されている。
 堀口は、市川の荷風のもとへ足しげく通った、数少ない文人の一人であった。
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佐藤春夫(1892〜1964)

佐藤 春夫 さとう・はるお  詩人・小説家  1892(明治25)年〜1964(昭和39)年
 
 『三田文学』を主宰する荷風に魅かれ、慶応義塾大学に入学。小説『田園の憂鬱』、詩集『殉情詩集』などを著す。
 佐藤は、1947(昭和22)年に『荷風雑観』を著し、『断腸亭日乗』昭和23年2月9日の条で、荷風は “佐藤春夫氏及び吉田精一氏の余に関する著書一読” と記した。ただし、本書の内容は1945(昭和20)年までの荷風のことであり、戦後の荷風については語られていない。
 
 佐藤は、荷風の死に際して、マロニエの枝とともに、次のような弔詞を捧げている。
 
  奉る小園の花一枝 み霊よ見そなはせ まろにえ 
  巴里の青嵐に 黒き髪なびけけん
  師が在りし日を われら偲びまつれバ 
 
 告別式の様子は、1960(昭和20)昭和35年に発表した『小説永井荷風伝』の中で、次のように語られている。
 “先生の終の栖といふのをわたくしはこの時はじめて見たわけであるが、あれは何という線か、近郊の電車の小駅に近く市場などに近接した地域の角地で、門から玄関まではほんの数歩、門からすぐ右折して木も何も見当らない空地の庭が五六坪、それに面して南向らしい肘かけ窓の一面にある六畳の間、それにつづく玄関と玄関の奥が台所でもあらうか、バラックに毛の生えた程度のほんの雨露を凌ぐだけのお粗末なものであった。”
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花柳章太郎(1894〜1965)

花柳 章太郎 はなやぎ・しょうたろう  俳優 1894(明治27)年〜1965(昭和40)年
 
 東京都出身。1935(昭和10)年、谷崎潤一郎の「鵙屋春琴」(「春琴抄」)の劇化に成功し、文芸作品を中心とする新派の流れを確立した。荷風作品では戦後、「あじさゐ」「葛飾土産」「腕くらべ」を演じている。
 
 花柳「忘れられたコウモリ傘」(『中央公論』昭和34年7月号、『近代作家追悼文集成36』に所収)には、次のように記されている。
 “「腕くらべ」は随分前に、巌谷槙一さんと話合って戦後間もなく、市川の先生のお宅を訪ねた時の印象が残っております。菅野の家の門から続く庭からの先生の居間は、聞きしにまさる乱雑なものであり、コレが大荷風の起居している住いかと思われるくらいでした。(略)帰途、近くの杵屋五叟氏の家の前を通って、正岡容君の住居を訪ねて帰りました。”
 この日のことは、正岡容の『荷風前後』(好江書房 1948)にも、“花柳兄は小西邸で、此から正岡君のところへ廻ると云はれたら、先生曰く、「正岡君のところなら、此から行くと桜土手へでますからそこを暫く行って……」と云って、急に口籠られ、「エーと、あとはその辺で聞いて下さい」ぢゃ何にもなりはしない……と花柳丈さもおもしろさうに笑ってゐたが、いかにも先生らしくて微笑ましい。” と記している。
 
 『断腸亭日乗』には、昭和23年7月25日、昭和31年6月13日に訪問の記述があり、昭和23年9月13日の条には、花柳が出版を予定していた『続きもの』の “序文を草す” とある。
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川端康成(1899〜1972)

川端 康成 かわばた・やすなり  小説家  明治32(1899)年〜昭和47(1972)年
 
 日本最初のノーベル文学賞受賞作家。『浅草紅団』『雪国』などがある。1945(昭和20)年から4年間、高見順らと出版社鎌倉文庫を創業し、川端はその関係で荷風を訪れている。
 
 川端「遠く仰いで来た大詩人」(『中央公論』昭和34年7月、『近代作家追悼文集成36』所収)には、“昭和二十年十一月九日、中山義秀氏と二人で、熱海の大島五叟子氏方へ訪ねて、初めて荷風氏にお会いすることができ、同月十四日には私一人で行き、その後、市川のお宅への(ママ)二、三度うかがひ、また幸田露伴氏の葬式の日に市川の氷水屋で見かけたりした、その折り折りの印象は忘れられないので、いつか書いておきたいと思ってゐたが、私はただ鎌倉文庫といふ出版社の、まあ使ひとして行っただけだから、(略)荷風氏の着てゐるものだとか、栄養失調らしく顔がひどくむくんでゐた病床の(荷風氏は起き出て床を二つに折り、正座して話されたが)ありさまだとかにおどろき打たれた” と語られる。
 『断腸亭日乗』には、昭和21年2月5日、3月20日、5月23日に川端来訪の記述が見られる。
  
 戦後の荷風宅を訪れた様子や露伴の葬式の折りのことなどは、同行していた鎌倉文庫『人間』編集長の木村徳三『文芸編集者 その跫音』(TBSブリタニカ 1982)にも同様の回想が語られている。
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林芙美子(1903〜1951)

林 芙美子 はやし・ふみこ  小説家  1903(明治36)年〜1951(昭和26)年
 
 山口県下関市出身。昭和3〜4年の『放浪記』がベストセラーとなる。ほかに『浮雲』などがある。
 
 林が荷風を愛読していたことは、川本三郎『林芙美子の昭和』(新書館 2003)などに詳しいが、1948(昭和23)年9月23日、念願の荷風訪問がかなう。『断腸亭日乗』には、 “閨秀作家林芙美子来話” とある。
 この日の様子を林は、“先日、荷風先生をお眼にかゝつた時、七十歳を出られた先生が、いまなほ、夜々を十九世紀文学を読んでをられるときゝました。そのなかでも、ゾラを研究してをられる由をうかゞひ、小説作法のなかの四囲の何ものにも気をとられないで、ひたすら、自分の読みたいものを読んでをられる気性を面白いものに思ひました。・・・(略)・・・荷風先生は今年七十一歳になられたと思ひます。青年のやうに房々とした髪の毛をしてをられて、まるで年を離れた若々しい風貌でをられる事もたのもしい気がしました。” と回想している(「荷風文学」『荷風全集附録第8号』昭和24)。
 
 和田芳恵「永井荷風」(『太陽』昭和46年6月号)には、林が会いたいという願いを荷風に伝えると、“「林芙美子というひとはなんです」と、とぼけるようにいった。「先生、女流作家ですよ」「いけませんね、女でものを書くひとはきらいです」私は取りつく島もない感じになった。” と語られる。秋庭太郎『荷風外伝』(春陽堂 1979)によれば、林を荷風に紹介したのは朝日新聞社だったとある。
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ドナルド・キーン(1922〜)

ドナルド・キーン  日本文学研究家   1922(大正11)年〜
 
  ニューヨーク出身。コロンビア大学在学中の第二次世界大戦中に、日本語特別訓練を受ける。1956(昭和31)年「すみだ川」を英訳。
 
 『断腸亭日乗』昭和32年3月22日の条には、 “正午過浅草にて食事。帰宅後米人キーン氏訳余の旧作すみだ川をよむ” とある。
 キーンは、昭和32年か33年に荷風を訪ねたときの様子を、「日本の作家たち」(昭和37、『日本の作家』所収)で、次のように語っている。
 
 “日本人はよく、きたない所ですがと自分の家をけなして言うが、荷風先生の家はこうした表現が適切でもあろうかと私が感じた最初の家だった。しばらくして荷風先生が現われた。着物をだらしなく着、前歯のかけたその顔は非常にみにくく見えた。ところが一度彼が語り出すや、こうしたほかの印象はすべて消えてしまった。私はあんな美しい日本語というものを聞いたことがない。”
 この思い出は、『声の残り:私の文壇交遊録』(朝日新聞社 1992)でも繰り返し語られている。
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