荷風をめぐる人々 その1
身近な人々は語る
永井荷風展について
- ※「永井荷風展」は、第5回の市川市文化人展とて、2004(平成16)年に市川市文化会館で開催されたものです。
これに併せて、ホームページに掲載された時の記録を「展示アーカイヴ」として残してあります。
永井荷風展「荷風を語る」
会期:2004年3月13日(土曜)~3月28日(日曜)
会場:市川市文化会館展示室
⇒「荷風をめぐる人々」「市川の荷風を知る」「さまざまな荷風」「荷風を語る」として
各コーナーを設置。
実物展示資料(注記のないものは市川市中央図書館所蔵)
- 永井威三郎
- 『風樹の年輪』 1968 俳句研究社(永井家蔵書)
- 杵屋五叟
- 『五叟遺文』 1963 私家版
- 永井荷風
- 『荷風思出草』 1955 毎日新聞社
- 小門勝二
- 『荷風歓楽』 1962 (1974新装版 河出書房新社)
- 小門勝二
- 『実説荷風日記』 1967 私家版
- 正岡容
- 『荷風前後』 1948 好江書房
- 中村光夫訳
- 『男ごころ モーパッサン長篇全集 第五巻』 1951 白水社(水木洋子蔵書)
『太陽 1971年6月号 特集:永井荷風』 1971 平凡社 和田芳恵「永井荷風」ほかが掲載
パネル展示資料
- 幸田文
- 「すがの」 (『荷風全集附録第15号』中央公論社 1950)
- 吉井勇
- 「葛飾住み」 (『荷風全集附録第4号』中央公論社 1954)
- 吉田機司
- 『白玉樓』 (私家版 1965)
- 吉井道郎
- 「房総文学散歩 永井荷風17」(『東京新聞』1994年5月21日号)
- 安岡章太郎
- 「自叙伝旅行」(『市川の文学』市川市教育委員会 1982)
- 五木寛之
- 『ある日日本の片隅で』(『五木寛之作品集23』文芸春秋 1974)
- 井上ひさし
- 「証言」(『作家の証言 四畳半襖の下張裁判』1979 朝日新聞社)
- 井上ひさし
- 『聖母の道化師』(中央公論社 1981)
- 吉野俊彦
- 『鴎外・啄木・荷風』(文藝春秋 1994)
- ドナルド・キーン
- 『声の残り 私の文壇交遊録』(朝日新聞社1992)
- 半藤一利
- 『荷風さんと「昭和」を歩く』(プレジデント社 1994)
杵屋五叟(1906~1957)
- 杵屋五叟
- きねや・ごそう
- 邦楽家
- 1906(明治39)年~1957(昭和32)年
本名、大島一雄。荷風の従弟で、幼少期から長唄に携わる。子どもの無かった荷風は、昭和19年に五叟の次男永光を養子として入籍。1945(昭和20)年3月の東京大空襲で偏奇館を焼け出された荷風は、東中野、熱海で、五叟の元に身を寄せる。やがて、五叟が市川に借家を見つけ、1946(昭和21)年1月から荷風とともに市川での生活を始めることになる。
しかし、三味線の稽古をする五叟と、著述業に専念したい荷風との生活は折り合わず、その苦悩ぶりは、「日誌」に詳細に語られている。公開を予期せずに書かれたものだけに、荷風の身近にあった人の証言として貴重である。
正岡 容(1904~1958)
- 正岡 容
- まさおか・いるる
- 芸能研究家
- 1904(明治37)年~1958(昭和33)年
若いころから荷風、岡本綺堂、吉井勇らの影響を受け、江戸文学や芸能などの研究家兼作者として知られる。
大空襲で東京を焼け出された後、1945(昭和20)年11月に市川の知人宅に移り、12月、笹塚(現真間2丁目)に新居を構え、1953(昭和28)年10月まで住んだ。
荷風についてのまとまった著作に、『荷風前後』(好江書房 1948)がある。1944(昭和19)年夏、東京麻布の偏奇館を表から拝した思い出に始まり、1946(昭和21)年8月11日、海水帽、開襟シャツの荷風が真間の正岡家を訪問し、舞踏家の妻・花園歌子とともに、その光栄に狼狽したとある。また、五叟家や小西家での荷風の様子のほか、吉井勇、花柳章太郎らが荷風の家を訪問の後に、正岡家に立ち寄ったりするエピソードなどが語られている。
同書にはまた、市川で活躍した川柳作家の阪井久良伎(さかいくらき)、吉田機司(よしだきじ)らとの親交とともに、荷風に触れた文章も収められている。
小門勝二(1913~1977)
- 小門勝二
- おかど・かつじ
- 新聞記者
- 1913(大正2)年~1977(昭和52)年
本名、小山勝治。日本新聞協会新聞学院卒。毎日新聞東京本社に勤務しながら、1949(昭和24)年ころから荷風の元に出入りし、さまざまな見聞を遺した。晩年の荷風に接した数少ない一人。『散人-荷風歓楽』で第10回日本エッセイストクラブ賞を受賞。その著作は多いが、市川での生活について多く語られたものに、『荷風歓楽』(河出書房新社 1962)、『実説荷風日記』(私家版 1967)などがある。
『荷風歓楽』では、菅野の家に泥棒が入った話、菅野から八幡の家に引越したときの思い出、亡くなる前後の様子などが語られている。
『実説荷風日記』では、五叟家での生活ぶり、小西茂也家に移り住んでの奇談、文化勲章を受章してからの荷風、荷風絶筆作品の思い出などが語られる。
相磯凌霜(1893~1983)
- 相磯凌霜
- あいそ・りょうそう
- 鉄工所重役
- 1893(明治26)年~1983(昭和58)年
本名、相磯勝弥。小門同様、晩年の荷風のもとに出入りし、さまざまな見聞を残した。また、船橋市海神に別邸があり、荷風はしばしば、同居人のラジオの音を逃れて、そこを執筆の場として利用した。財産の管理や葬儀の段取りなどを行なったのも、相磯であった。
『永井荷風』(角川写真文庫 1956)の監修、『永井荷風日記』(東都書房 1958-59)附録の「永井荷風日記の栞」を担当するほか、『中央公論』昭和34年7月号に追悼文を載せる(『近代作家追悼文集成36』所収)。秋庭太郎『新考永井荷風』にも、「荷風先生の近況」「葛飾こよみ余話」などの短文が引用されている。
もっともまとまったものに、荷風との対談をまとめた『荷風思出草』(毎日新聞社 1955)がある。対談の後に収められた「荷風先生の七つの話題」は、「同居人インコの死」「万年床と禁断の場所」「税金に対する考え方」「偽筆と『四畳半襖の下張』」など、荷風といつも膝を交えていた相磯ならではのエピソードがつづられている。
相磯の別邸については、『永井荷風日記第七巻』(東都書房 1959)に写真が掲載、松本哉『荷風極楽』(三省堂 1998)に詳しい。
猪場 毅(1908~1957)
- 猪場毅
- いば・たけし
- 俳人
- 1908(明治41)年~1957(昭和32)年
俳号、伊庭心猿(いばしんえん)。富田木歩を俳句の師とする。戦前から、真間の手児奈霊堂参道傍らに「此君亭」(しくんてい)という小店を開き、玩具や墨蹟などを売っていた。
荷風とも親交が深く、偏奇館に自由に出入りして難解な文字の調べまで依頼されるなど、相当の信頼を受けていたが、荷風の原稿などを偽筆して密かに売りさばいていたことが知れ、1940(昭和15)年には絶交を余儀なくされた。
ことの顛末は、荷風『来訪者』(昭和21)に “木場は北千住に住んでいたのであるが、真間の手児奈堂の境内に転居し” として語られている。
荷風について触れたものに、『絵入墨東今昔』(葛飾俳話会 1957)に収められた「荷風翁の発句」(昭和28年10月執筆)などがある。
松本哉『永井荷風の東京空間』(河出書房新社 1992)に、著者が「此君亭」を訪れた様子(昭和60年ころか)が詳述されている。
このページに掲載されている情報の問い合わせ
市川市教育委員会 生涯学習部 中央図書館
〒272-0015
千葉県市川市鬼高1丁目1番4号 生涯学習センター内
- 電話
- 047-320-3333(自動応答)
047-320-3346(直通)