5 むかしのようす(建設の経過)

5 むかしのようす(建設の経過)

むかし、江戸川放水路(えどがわほうすいろ)のところは、「たんぼ」でした。そこをほって、おおきな「かわ」のような、江戸川放水路(えどがわほうすいろ)をつくりました。たいせつなたんぼを、こわしたのは、えどがわの「こうずい」から、まちを、まもるためでした。江戸川放水路(えどがわほうすいろ)は、こうずいから、まちをまもるために、つくったのです。
江戸川放水路(えどがわほうすいろ)のまわりは、まちになりました。うみのところは、うみを、つちでうめて、こうじょうができました。たくさんのひとが、すんだり、はたらいたりしています。でも、しぜんは、なくなりました。しぜんは、江戸川放水路(えどがわほうすいろ)と、「かもば」のまわりに、のこりました。

江戸川放水路に干潟の生態系が残っているのは偶然の産物であり、奇跡的なことでもありますが、その理由はおもにつぎのようになります。
まず、江戸川放水路を開削したのが古い時代だったため、周辺の東京湾岸には干潟や浅瀬の自然がたっぷり残っていました。そのため、新たな環境として出現した江戸川放水路にも、多くの生き物が住み着くことができました。
つぎに、江戸川のような大きな河川の整備はゆったりとしていて、環境の大きな改変が比較的起きませんでした。そのため、江戸川放水路のなかにもしっかりとした生態系ができあがりました。
その後、東京湾岸では埋め立てが大規模に行われ、谷津干潟を除くと、もともとの干潟はほぼ失われましたが、江戸川放水路には後発で干潟の生態系が根付きました。また、江戸川放水路の沖側には「三番瀬」と呼ばれる良好な浅瀬も残りました。三番瀬は、潮の満ち引きで江戸川放水路に出入りする海水にも良い影響を及ぼしていると思われます。両者は一体の自然と言っていいかもしれません。また、新浜鴨場と隣接する一帯は「行徳近郊緑地特別保全地区」として保全されました。
江戸川放水路は、江戸川本川と水のつながりがありません。それはつまり、真間川のような都市河川とのつながりもないということです。そのため、特に都市河川の水質汚濁が激しかった時代にも、あまり影響は受けませんでした。
江戸川の増水時は、江戸川からの水が流れ込みます。増水時の水ですから、土で茶色くなった濁流です。じつはこの濁流に含まれる泥が、江戸川放水路の干潟を維持しています。数年に一度くらいの頻度で増水した江戸川の水といっしょに泥が流れこみ、これが満ち潮で江戸川放水路に運ばれ、静かに沈殿して泥干潟に供給されます。このような干潟が維持される仕組みも、計算されたものではありません。偶然にできあがりました。
周辺で急速に都市化が進む中、堤防に囲まれた江戸川放水路には、さまざまな偶然が重なって昔からある東京湾の干潟の自然が生き残りました。

明治13年土地利用図
えどがわほうすいろが、できるまえの、ちず(明治13年土地利用図)
大正8年土地利用図
えどがわほうすいろを、ほっているときの、ちず(大正8年土地利用図)
昭和22年土地利用図
えどがわほうすいろが、できたあとの、ちず(昭和22年土地利用図)
昭和44年土地利用図
えどがわほうすいろが、できたあとの、ちず(昭和44年土地利用図)
昭和23年の航空写真
むかしの、しゃしん(昭和23年航空写真)

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